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書籍と雑誌の要約と解説

いのちを返せ!

ドキュメント●薬害ヤコブ病とたたかった人びと

装丁
いのちを返せ! いのちを返せ!
薬害ヤコブ病闘いの記録編集委員会(矢吹紀人)
あけび書房
ISBN4-87154-050-2
2004/03/05
¥1600
解説
薬害ヤコブ病東京訴訟原告団、同弁護団、東京支える会の三者は、
このたたかいを後世に語り継ごうと決意しました。
市井の人たちが突然薬害に侵され、やがて裁判に立ち上がり、
そのたたかいを通じていかに社会の不正義を知ることになるか、
そして、国や企業とたたかうことなど思いも及ばなかった人たちの
苦難と勝利の道程について、ドキュメント・タッチで記録した本を刊行しようということになりました。

そこで、三者で構成する「薬害ヤコブ病闘いの記録編集委員会」を2002年7月に立ち上げ、
多くの仲間に素材となる原稿の執筆依頼をして、編集作業を進めてきました。

目次
  1. 愛する家族を奪ったものは…
    1. 1986年11月29日
    2. 告げられたのは「死の病」
    3. クロイツフェルト・ヤコブ病
    4. 誰も知らなかった「硬膜移植」
    5. 母と妹の悔い
    6. ほんとうの病名をみんなに
    7. 大津からの手紙
    8. 「薬害」に妻を奪われて
    9. 原因は防ぐことができた
    10. 真実を訴える日々
  2. 薬害を許すなと
    1. 心に響いた原告の訴え
    2. 1日も早い解決を求めて
    3. 「大津ツアー」に集う人びと
    4. 動き出した支援
    5. ライオデュラはなぜ汚染されたのか
    6. 何度もあった被害防止のチャンス
    7. 厚生省調査班班長の証言
    8. 「責任は国にある」
  3. 響きあう心と心
    1. 音楽は心と心をつないで
    2. 「若芽の会」結成へ
    3. 苦境に立つ被告側
    4. 厳寒の札幌で
    5. 思いは大空をこえて
    6. 広がり高まる支援の力
    7. あなたにもっと知ってほしい
  4. 解決を私たちの手で
    1. 涙と怒りの本人尋問
    2. 悲しみを乗り越えて
    3. 運動の力は各地から
    4. 議員の会結成される
    5. 要求を高く掲げて
    6. ノーモアヤコブ 心はひとつ
    7. 霞ヶ関に響くシンフォニー
    8. 所見出る
  5. 薬害を二度とおこすなと
    1. 心をつなぐ真紅のバラ
    2. 加害企業の責任を追及
    3. ついに実現、大臣の見舞い
    4. 悲しみと寒さに耐え
    5. 全被害者に国の責任
    6. 最後の座り込み
    7. 確認書調印される
    8. 息子のくれた贈り物

内容

前田直幸の症例[P.11_22-23]

直幸はしだいに、仕事から帰ると横になることが多くなり、頭が割れるほど痛いと訴えるようになった。
夜になると高熱を出しては次の朝になるとおさまるという症状も、日を追って頻繁におこるようになった。
「頭が割れそうだから音たてないで」
仕事から帰るとすぐ横になり、公榮がそばを歩いただけでそう訴える。

ある朝、起きてきた直幸を母親の公榮が見ると、黒目が真っ白ににごっていることがあった。
公榮はそのとき初めて、異常なものを感じたという。
やがて直幸は身体の自由がきかなくなり、自力で歩くこともままならなくなっていった。

直幸は自分でもおかしいと感じたのか、その年の夏ごろ、何回か町医者や近くの病院で診察を受けていた。
だが、どの医者にも「どこも悪くない。風邪もひいていない」といわれて帰されるだけだった。

夏を過ぎて9月にはいったころには、
体の自由が思うようにきかなくなり、フラつきながらしか歩けなくなる。
階段もはうようにしてあがるようになる。
話しかけている言葉がよく聞き取れなくなる。
目もよく見えなくなる……。
症状は、1日1日と悪くなっていくばかりだった。

「あまりにもおかしいんで、いろいろな病院に連れていきました。
もうそのころには自分ではうまく歩けなかったんで、いろいろな病院に連れていきました。
もうそのころには自分ではうまく歩けなかったんで、私と知恵子でささえるようにして。
でも、どこの病院にいっても何も悪くないといわれました。
CTなんかをとっても、異常が出なかったんです」

公榮たちの願いにもかかわらず、直幸の症状は少しもよくなってはいかなかった。
97年が明けたころには、自力では歩くことさえできなくなった。
97年3月4日、いくつもの病院で診察を受けた後、直幸はようやく入院することができた。

当時の様子を、妹の知恵子は後にこう手記に記している。
「5月17日、兄は痰が気管につまって、呼吸困難になりました。
先生は、痰を取り除くために、兄の前歯を叩き折りました。
兄は先生の指示に従うこともできず、自分で口をあけることもできなくなっていたのです。
病院からの報せをうけて、母と私がかけつけたときは、
兄の鼻にチューブが差し込まれ、いろんな点滴がされていました。
兄の目からは涙があふれ、止まりませんでした。
2週間後には、喉を切開して喉からホースをつなぎました。
兄は、毎日、私たちがいくと安心していました。
とくに母が来ていることを知ると落ちついた表情になりました。
もう兄の目は見えていなかったのかもしれません。
でも、私たちがベッドの横にすわると、
ずっと私たちのほうを見ようとしてくれていました。
それから、2週間たって、兄の意識は無くなりました……」

病名がわかってからわずか1か月後の6月21日午前11時30分。
直幸は眠るように静かに息を引き取った。

池藤幸子の症例[P.30-31_34-35]

5月の連休を過ぎたころから、幸子の体調に異変があらわれ始めた。

頭が重い、フラフラする。しばらくすると、食事がうまく飲みこめない、
方向がよくわからないなどと、症状はどんどん悪くなっていった。

そのころになって、池藤はひとつのことを疑った。

幸子はそれより6年前の87年4月に、三又神経痛の手術を受けていた。
脳の下から出ている太い神経に、脳動脈が触れて激痛が走る病気だった。

<中略>

池藤は早速、知り合いの脳神経外科の医師がいる病院に幸子を連れていった。
頭部の検査を終えた医師は、不可解な顔をしながらこういった。

「脳をCTでとって検査しましたが、手術のあとには異常はありません。
ただ、脳波には大いに異常が見られるんです」

このとき、幸子はすでに、ヤコブ病の典型的な初期症状を示していたのだろう。
だが、池藤はもちろん、診察した医師もそのことにはまったく気づかなかった。

「自分は精神科でも神経内科でもないからよくわからないが、アルツハイマーではないでしょうか」

<中略>

6月にはいるころになると、幸子は歩くこともできなくなっていった。
夜寝ている間に激しくうなされたり、幻覚をみてこわがるようにもなった。

「あの陰に何かいるんじゃない」

「外にキツネがいて私をみてる」

*   *   *

ヤコブ病の宣告から数日後、幸子は池藤のもっていったリンゴ汁を飲み、かろうじて声を出した。
「おいしいね」その言葉を最後に、幸子の意識はなくなった。
その後は、水さえも自分では飲めなくなってしまった。
無動性無言となって病院のベッドに横たわりながら、ときにけいれんへの苦痛で顔をゆがめる幸子。
最後は血圧も低下し、気官を切開して人工呼吸をして命をながらえる状態だった。

「妻の口のところが、血ににじんだガーゼでおおわれてるんです。
私が見舞いにいくと、じっとこっちの目を見つめるんですね。
それがまるで、『なんでこんなつらいめにあわせるの』っていってるようで……。
痰を吸引するときも、意識がないのに苦しそうな表情で涙を流すんですよ」

そこまで苦しみながらも、やはり幸子もヤコブ病に打ち勝つことはできなかった。
最初の入院から2年3か月後の95年9月1日、病院のベッドに横になったまま幸子は帰らぬ人となった。

若芽の会[P.93]

黒田真一や藤井基博らが中心になって「若手のなかで会をつくろう」となったとき、
大原たちもその中心で動くようになっていた。
会の名称は「若芽の会」。
初めは、「ヤング・ヤコブ・ネット」などの案が出されたが、
「若いといっても20代後半や30代が目立つ。
これじゃあ、せいぜい“若め”ぐらいがいいところだ」という話から、
「若芽」という言葉が出てきたのだった。

こすもすの会[P.94-95]

東京の医学生の間では、
2000年6月に薬害ヤコブ病訴訟を支援するメーリングリストが開設され、
「こすもすの会」がつくられた。

「私たち医系学生は、将来こういった薬害の加害者になってしまう可能性がある」

「私たちの生きていく未来にこのような薬害が絶対あってほしくない」

医学生たちはそう話し合い、「自分たちに何かできることはないか」と会を立ち上げたのだった。

<中略>

通信の発行、裁判の傍聴、ビラ配りへの参加、
メーリングリストでの意見交換、学生の集まる場所での宣伝行動など、
「こすもすの会」はできる範囲の多彩な活動で訴訟を支援していった。

ややの会[P.96]

もっとも熱心に動いたのが長野県の信州大学の学生だった。
医系学生を中心にして、
「ややの会(信州大学薬害ヤコブ病訴訟を支える会の略)」が99年11月につくられた。

「ややの会」には翌年5月から文学部などの学生も加わり、
教養課程の教室で宣伝行動、著名集めなどの活動を展開した。
このとき短時間で集めた著名は、600筆にのぼった。
また、2000年6月には原告の山村と弁護士をよび、講演会をおこなっている。

ヒロの症例[P.99-100]

高校入試が終わった98年4月ごろから、ヒロくんの行動に異変があらわれ始めた。

最初に母親が気づいたのは、好きだったファミコンをやらない、
自転車に乗りたがらないなどといつもとちがうふるまいだった。
6月に入ると、歩いていても曲がってしまう、すぐにすわりこんでしまうなどの症状があらわれた。
歩き方は前かがみで、視線も定まらないような状態になった。

「お母さん、このごろ怖い夢をみるよ」

そんなことを口にするころには、激しい頭痛を訴えることも多くなった。

この段階でヒロくんの両親は、手術の執刀医だった高橋義男医師に診察を受けている。
だが、「小脳が下がっている」などの症状はうかがえたが、
高橋医師にもほんとうの病名はわからなかった。

<中略>

その後、いくつかの病院で何度もの検査を受けた後、
ヒロくんは「ヤコブ病の疑い」という診断を受ける。
そして、8月に入ると無動性無言の状態になってしまった。

薬害が多すぎて他国に馬鹿にされる日本[P.110-111]

2000年8月、カナダのサスカチュアンという都市で「世界科学者会議」のシンポジウムがあった。
このシンポジウムに民医連の薬剤師である藤井基博らが参加し、
日本でおこっている「薬害」について、
とりわけ、薬害ヤコブ病について報告するという機会に恵まれた。

発表が終わったあとに、アフリカの代表からは何度も
「いったいなんで薬害などおきるのか」と説明を求められた。
本来は人の病気を治すものであるはずの薬が、
なぜ人のいのちを奪うような「凶器」になってしまうのかが理解できない様子だった。

あるアメリカの大学教授は、せせら笑うような顔をしてこういった。
「先進国でそんな薬害を繰り返しているのは日本だけだよ。
君はファーマシスト(薬剤師)なのに、いったい何をやっているんだい」

父を亡くした子の様子[P.121]

夫が亡くなった後、子どもは、お父さんの写真がみたいといって、アルバムをみせると泣いていました。
保育園の先生は、“君のパパはお空にいったのよ”と教えてくれたそうです。
保育園のお友だちで、他にもお父さんを亡くした子がいるようで、
うちの子とその子の二人で空を見上げて、
“君のお父さんあれかな。ボクのお父さんあれかな”といっているときがあるそうです。

渡邉昌江の症例[P.128-129]

昌江に異変が生じたのは、長男夫婦に二人の孫ができ、
薬店も閉鎖して老後を楽しんでいた99年3月ごろだった。
髄膜腫摘出の脳外科手術を受けてから、13年がたっていた。

<中略>

3月に入ってようやく春めいてきたある日、
昌江は朝起きるとめまいを感じ、足元がふらついてうまく歩けなくなった。
症状は一進一退を繰り返したが、日を重ねるうちに悪くなっていくようにみえた。
やがて、夜中におそろしい夢をみて、恐怖を訴えるようになっていった。

渡邉はすぐ、昌江を病院へ連れていった。
しかし、原因がわからないまま、昌江の痴呆症状はどんどんひどくなっていった。

ヤコブ病の症状が出始めてから4か月ほどたった7月末。
病院のベッドで横になっていた昌江が、突然渡邉のほうを向いてしゃべった。

「パパ、私なんだか、もうパパとそんなに長くいられないような気がするの」

驚いた渡邉は、急いで昌江のベッドサイドにいった。
だが、昌江はそれだけいうと、渡邉に背をむけたまま二度と口を開こうとしなかった。
まるで自分の病状の進行を予測したかのように、
この言葉を最後に昌江は無動性無言の状態になる。

<中略>

昌江が寝たきりとなってからしばらくして、
渡邉と長男は主治医から「ヤコブ病としか考えられない」という診断を聞かされる。
そして、「長くて2年、短ければ6か月のいのち」と宣告されたとおり、
それからわずか半年ほどで昌江は帰らぬ人になってしまった。

厚労省前で叫ぶ被害者の声は大臣室まで届く[P.198]

大臣室に入ったとき、原告の袖野はひとつの事実に気づいた。
原告らを元気づけ、国の責任を追及するため、
この日も多くの支援者が厚労省前で宣伝行動をおこなっていた。
そのスピーカーから流れる宣伝や訴えの声が、大臣室の中でも大きな音で聞こえてくるのだ。

『俺たちの訴えは功労大臣にも聞こえていたんだ。
だったらなぜ、もっと早く対応してくれなかったのか……』

ライオデュラの偽装臨床試験[P.202]

弁護団は手分けしてメンバーをまわり、国が全被害者の救済をすべきだと話してまわった。

被告である輸入業者がヒト乾燥硬膜の輸入申請をしたとき、
実際には臨床試験をやっていなかったのに「やった」と称した事実。
厚生省の審査が、たったひとりの係官が書類を見るだけでおこなわれていた事実。
マスコミを通じて明らかになった厚生省の杜撰さを示して、
そもそも73年の輸入承認自体に問題があったことを国会議員たちに説明した。

薬害ヤコブ病闘いの記録編集委員会[P.235]

薬害ヤコブ病東京訴訟原告団、同弁護団、東京支える会の三者は、
このたたかいを後世に語り継ごうと決意しました。
市井の人たちが突然薬害に侵され、やがて裁判に立ち上がり、
そのたたかいを通じていかに社会の不正義を知ることになるか、
そして、国や企業とたたかうことなど思いも及ばなかった人たちの苦難と勝利の道程について、
ドキュメント・タッチで記録した本を刊行しようということになりました。

そこで、三者で構成する「薬害ヤコブ病闘いの記録編集委員会」を2002年7月に立ち上げ、
多くの仲間に素材となる現行の執筆依頼をして、編集作業を進めてきました。

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