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書籍と雑誌の要約と解説

Sickened

母に病気にされ続けたジュリー

装丁
Sickened Sickened~母に病気にされ続けたジュリー
ジュリー・グレゴリー(www.juliegregory.com)
竹書房(竹書房文庫)
ISBN4-8124-1454-5
C0174
2004/02/07
¥648

「あんたは病気なの」

飲む必要のない薬を大量に飲まされ続け、
ありもしないアレルギーを理由にわずかな食事しか与えられない。
母に嘘の病気をでっち上げられ、心臓カテーテルの検査のため、
太ももにメスを入れられ、血管にワイヤーを通される…。
<代理によるミュンヒハウゼン症候群(MBP)>の母親による、
終わらない「虐待の闇」を生き抜いた女性の壮絶な半生。

文献

メアリー・エドナ・ヘルファ『虐待された子ども』[P.352]

内容

サンディーには、母親と父親、それから何というか、少々いかれた、リーという兄がいた。[P.24-25]

父親は家族に背を向けたきり、
家じゅうにしまった銃のコレクションのことばかり考えている男。
母親のマッジは、兄弟姉妹がたがいに通じあったせいで寄り目の子供が生まれているという、
ウェスト・ヴァージニア州のある一族の出だった。
サンディーはときおり男たちのなかに取り残され、
暗い地下室でひどい目にあわされていた。
そんなある日、銃マニアの父親が、
銃を携帯するべつの父親と入れ替わった――今度はバッジ付きだ。
彼はサンディーを後ろに乗せ、
彼女のむきだしの脚に片手を回したままオートバイを駆った。
行き先は、人里離れた、背の高い草の生い茂る釣り場。
ときおり通りかかる釣り人は、ふたりを見て目をそらした。
二年後、サンディーが学校から帰ってくると、
リビング・ルームのソファの上で、
この新しい父親は銃を口に突っ込んで頭を吹き飛ばしていた。

母親のマッジは十年生まで学校に通い、その後は一日たりとも働いたことがなかった。
うちのなかに食べ物があることは、めったになかった。
昼食代を与えられなかったサンディーは、十五になるころには衰弱しきっていた。
あげくに栄養失調におちいり、
放課後アンモニアで床を磨いている最中に倒れてしまう。
白く薄いシーツの上から
骨盤の骨が突き出ているのがわかるほどやせこけていた彼女は、
病院でようやく一日三度の食事にありついた。

グランマはわたしの頭越しにしわだらけの指を突きだした。[P.32-36]

「すぐそこにいらっしゃるわ」といって、
ライフルスコープでねらいをつけるように目をすがめている。
グランマに見えるのは、あるときはひざまずいて祈るキリスト、
あるときは聖書を手にたたずむキリストの姿。
またあるときは、そのあまりの美しさに涙を絞りだす。
そうして、指を振りたてた。
「あれが見えないの、ジュエリー。すぐそこ、そこよ!」
「ううんとグランマ、よくわかんない。」
でも、幻影が見えないとグランマがかんしゃくを爆発させるので、
日曜学校で見た絵のあやふやな記憶を頼りに、
キリストがどんな格好をしているかいってみる。

中略

やがてお日さまが少し傾き、
日差しが羽毛のようにふわふわと湖面に射し込むころ、
グランマとわたしは車に乗り込み、町に戻って交通事故を引き起こした。

大きな事故になったことは一度もない。
あるときは正面衝突、またあるときは追突の事故だったが、
かならずゆっくりしたスピードで、
たいていはグランマと同じくらい年を取った人が運転する車にぶつかった。
遊園地でぶつけあいっこをするバンパーカーが、
路上を走っているようなものだ。
「いくわよ、ジュエリー」
グランマが声をかけると、
さっとドア・ハンドルをつかんで、目をぎゅっと閉じる。
攻撃目標は、標識やブレーキ・ランプといった赤いものばかり。
衝突すると、グランマは車からさっさと降りて、
集まってきた人たちのなかに紛れ込んでしまう。

わたしは開いているドアから這いだし
(グランマはいつも車を降りる前に運転席から手を伸ばし、
内側から助手席のドアを開けておいてくれた)、
混乱している現場をさまよった。
自分というピースがパズルのどこにはまるかわからずに
交差点の喧噪のなかに立ちすくんでいると、
たいてい見知らぬ人がびっくりして飛んでくる。
助けてくれた人は、わたしにあれこれと話しかけて質問責めにし、
セブン-イレブンか釣具屋か自分の家にわたしを連れていってくれた。
そのうち母が迎えに来る。

グランマが病院に運ばれたり、まともにけがをしたりしたことは一度もない。
事故を起こしたのは、人と話をするためだった。
彼女は往来のまんなかで、特大サイズの、
でこぼこした合成皮革の白いハンドバッグのなかをかき回して――
片足をひょいとフェンダーにかけ、
ひざの上にそのハンドバッグをでんと乗せていた――
財布を取りだし、一緒にいた四歳の孫の写真をまわりの人に見せた――
四歳の子供がいなくなったことなど、だれも気づいていないのに。

グランマは事故現場で浮かれ騒いだあげく、しまいには連れだされた。
石像のようにいかめしい顔をした警官から、
不審な事故を繰り返し起こしていることについて説教されているあいだ、
グランマは、まあそうかしらなどといいながらただにこにこしていたが、
やがて自分からパトロールカーの後部座席に乗り込むと、
白い聖書をペルシャ猫のようにひざの上でいじくりまわした。
こうしてグランマは運転免許を失い、
わたしを車に乗せてどこかに行くことも禁じられたが、
その後もママとパパがデートに出かけるときは、
うちにきてわたしの面倒を見た。

チェスターと会うのは最後の祖父母に会うチャンスだった。[P.53-55]

チェスターの家がある退役軍人専用の住宅地には、ひと気がなかった。

ママは腕組みをしていった。
「それじゃダン、あたしは車のなかで待ってるから。あんまり長居しないでよ」

パパは十六歳で海軍に入隊してからチェスターに会っていなかったし、
わたしも初めてのことなので落ち着かなかった。
きょう、新しいおじいちゃんができるのだ。

パパとわたしは路肩に降りた。
パパが深呼吸したので、わたしも息をつく。
わたしたちは目を合わせると、手をつないで歩道に踏みだし、
めざす家に人が暮らしている気配を探した。
上のほうが黄ばんで、タバコの煙のすすが
黒っぽい縞模様になって浮いているカーテン。
郵便受けからはみだした手紙。
スクリーン・ドアに刺さっている色あせた動物形の風車。
ゴムのマットの下敷きになっているものもある。
けれども、ノックをすると、だれかがしゃがれた声を震わせて応えた。
「ドアは開いとるぞ」

わたしたちは玄関で立ち止まり、
七月の日差しが残した白い斑点が視界から消えて、
暗闇に目が慣れるのを待った。
暗いのは、チェスターがバド・ライトのケースを天井まで積み上げて、
リビング・ルームにひとつしかない窓から光をさえぎっているせいだった。
パパはチェスターとテレビのあいだに置いてあるオットマンに腰を下ろし、
わたしはパパのひざによじ登った。

「チェスターのことを“おじいちゃん”と呼んでいいんだよ。シシー。
いいだろう、チェスター」

チェスターはうなずいた。「もう一度、名前を教えてくれんか、おチビさん」

わたしは親指で胸を指して答えた。
「あたしはジュリー、でもパパはシシーって呼ぶの」

チェスターはコマーシャルのあいだはわたしたちと口をきいたが、
見ていた番組がまた始まると、
首を伸ばしてわたしたちの向こうにあるテレビを見た。
それでも、パパは話しつづけた。
アリゾナであったこと。わたしが通う学校のこと。
基地での仕事のこと。ママのこと。
チェスターは何度かふんふん、ほうほうとつぶやいていたけど、
しまいにシューッと大きなため息をついて
リモコンのボリューム・ボタンをピッピッと親指で押し、
パパの話し声を締めだした。

つぎのコマーシャルでチェスターはいった。「よく来たな、ペギー」
ペギーはパパの妹の名前だ。
来てからまだ十五分しかたっていなかったけど、
チェスターがわたしたちに出て行けといっているのはわかった。
パパは身じろぎひとつしなかった。
涙が目からあふれ、頬をつたってぼろぼろとこぼれ落ちている。
やがてパパはがっくりとうなだれると、のろのろと立ち上がった。
わたしはただの紙切れみたいに、パパのひざからすべり落ちた。
それでも、棒きれみたいな腕をパパの腰に回し、
片手でもう片方の手首をぐいとつかんで、パパの体を力いっぱい抱きしめた。
このままパパを行かせたくない。
パパは抜け殻のようになって、非力なわたしに腕ごと締めつけられていた。

「大好きよ、パパ」
「おれも大好きだ、シシー」

地面に倒れたときに手首がポキッといったので、折れたことがわかった。[P.66-68]

その日の午後いっぱい、わたしはきちんと片づいたリビング・ルームのなかで、
蒼いベルベットの回転椅子に座っていた。
ママは食器を洗って、ラジオの音楽に合わせて口笛を吹き、
ダニーの世話をして、家じゅうをくるくると忙しく動き回っている。
手首を見ると、骨が皮膚の下から少し突きだしていた。
ズキズキする。
熱をもった手首と同じくらい熱い涙が、頬をつたって流れ落ちた。
フィリップス先生に会いたい。先生に治してもらいたい。
でもママは、ただの捻挫よというだけだった。

「まだ早いわ、ハニー。もう少し待って。腫れが引くかもしれないでしょ。
マミーはいま忙しいの。パパが帰る前に晩ごはんの支度を始めないと。
先生のところに行くかどうかは、そのあとで決めればいいわ」

それから五時ぎりぎりになってようやく、ママは診療所に電話して、
ちょっとしたことだがきょう診てもらったほうがいいか、
それとももう一日様子を見てもいいかと相談した。

フィリップス先生はX線写真をママに見せた。
手首が三ヵ所折れている。

「まあ、驚いた」ママはいった。

すぐに来てくれてよかった、と先生はいった。
もう少し遅れていたら、手首がちゃんと戻らないところでした。
またこんなことがあったら、サンディー、いいですか、
様子を見ないですぐに連れてきてください。

先生がギプスの材料を取りに行くと、ママはくるっと顔を向けてこういった。
「そんな目で見ないで。ただの捻挫だったかもしれないんだから」

四年生になってまた転んだときは、歩道に倒れる前から、
もう一方の手首が折れることがわかった。
でもママは、パパが帰るまで待ちなさい、
今度わたしを診療所に連れていくのはパパの番だからというだけだった。

ママは腹を空かせた生き物を見るのが大嫌いだった。[P.92-93]

「ねえ、ハニー。あんなに痩せた子馬を放っておくなんて、ひどいことをするわね。
かわいそうに、つながれっぱなしで、どおにもいけないでいるわ」
わたしたちは町に行くたびに、あばら骨が浮きでるほど痩せたその子馬を見た。

「ジュリー、バケツにオーツ麦と糖蜜を二杯ずつ入れて。
途中であの子馬に食べさせるのよ」

ママはいつも、虐待されている動物はいないかと目を光らせていた。
たとえば、高速道路を走っていて、
だれかが口を縛って車の窓から捨てたらしい黒いゴミ袋が
道ばたに落ちているのを見かけると、路肩に車を停めて、
袋に子猫が何匹も入っていないか、わたしに見に行かせる。
おかげでわたしはきょうにいたるまで、
道ばたにゴミ袋が転がっているのを見かけると、
動物の子供が入っていないか、袋は動かないかと、
じっと見てたしかめるようになってしまった。

わたしたちは犬に囲まれて育った。
疥癬の犬、毛がぼさぼさの犬、痩せこけた犬、捨てられた犬。
そうした犬はみんな、わたしたちの生活に入り込んで、
農場で一緒に暮らすようになった。

その夜わたしは、一生忘れられない夢を見た。[P.100-101]

わたしは小川の粘板岩の上で足を滑らせていた。
土砂降りのあとで、足首のまわりで濁った水が渦巻いている。
ママはいつもいっていた。
嵐のあとは、ぜったいに小川に入ってはいけない。
スレートが一枚割れただけで体ごと持っていかれて、
地下の洞窟に落ちて二度と出られなくなるから。
ママの言葉を思いだしながら、わたしは木の枝をつかみ、
つま先に力を入れてじりじりと動いた。
そのとき、ぬるぬるする苔の上でかかとが滑り、
体勢を立て直そうとした拍子に、
足元のスレートがパイの皮みたいに砕けてしまった。
わたしは足元をすくわれて、
ウォーター・スライドのように角度がついた穴に落ちていった。
穴の壁は濡れたなめらかな粘土で、わたしは流れ落ちる水に乗って、
どんどん速度を増しながら、地球の中心へと飛ぶように滑り落ちていく。
スピードが速くなるにつれて、トンネルは狭く、乾いて、急になり、
しまいに両腕が動かせなくなるほど細い穴になった。
こわくはなかった。
このまま落ちつづけてもかまわない。
どんどん落ちていきながら、夢のなかでわたしは悟っていた。
穴を這い上がって光の世界に顔を出すことは、もう二度とかなわないのだと。

ママはわたしたちがきょうしでかした悪事をぺらぺらとまくしたてるけど、まったく身に覚えがない。[P.109-112]

わたしたちの口は「売女」とか「おま○○」といった汚い言葉を知らないし、
わたしたちの頭はそうした言葉を理解するようにはできていない。
でも、ママはわたしたちが面と向かってそういったという。

パパはつま先が泥で汚れのついたブーツを履いたまま、じっと耳を傾けている。

「ちょっと、なんとかするつもりはあるの? 
この子たちには、ビシッといって性根を叩きなおしてやる父親が必要なのよ」

「おれにはどうしろっていうんだ、サンディー。殴れってのか?」
パパはうんざりしていった。
「この子たちを見ろよ――まだ年端もいかない、かわいい子供もじゃないか。
それだけのために、こいつらを殴れってのか?」
わたしたちはほっと息を吐く。
でもママはますます猛り狂って、例の白い泡を唇のあいだでちらつかせながら、
手を腰に当ててパパに詰め寄る。

「わかった」ママは脚をバシンとたたいていう。
「それじゃ仕方ないわ。こんなことをいいたくはないんだけど。
でもこの子たちがどれだけ手のつけられない悪たれか、
あんたにわかってもらわないと」
ダニーとわたしはベロアのソファのそばに立ちつくして、しくしく泣いている。

ママはわたしたちをにらみつけていう。
「ダーン、聞いてくれる? 
この子たちは母親をばかにして、あたしのいうことを聞こうともしない。
そしてあんたはそこに突っ立ったまま、
この子たちがあたしをないがしろにするのを指をくわえて見てる」

「ふたりとも、ママのいうことを聞くんだ」

「あのね、ダーン、こいつらがなにをしたか教えてあげる。
そうしたらベルトを抜いて、こいつらを死ぬほどぶちのめしたくなるから」
わたしはベロアの生地をぎゅっとつかみ、
ダニーはおじけづいて、右足と左足にかわりばんこに体重をかけて
ぴょんぴょんと跳びはねる。

「いい、こいつらはきょう、あんたのガレージに入り込んだのよ」
パパの顔色が変わる。
「どういうことかわかる?」
ママはパパをうなずかせる。
「あたしが見に行ったら、あんたの工具箱をいじってたわ」
パパはぐいと顔を上げる。
パパの工具箱。ママの勝ちだ。

「あたしはいってやった、
『ちょっと、パパが工具をいじっちゃいけないってたでしょ。さあ、外に出て』。
そしたらダン、この子たちは何ていったと思う?」

パパはその先を聞こうと、耳をそばだてている。
このクソガキどもは、
ごちゃごちゃにしてはいけないといってある工具をもてあそんで、
何といったのだろう?

「この子たちはね、ダン、ほんとにこういったのよ」
ママは口をゆがめていう。
「『あんなクソおやじ、死んじゃえばいいんだ』」
パパはベルトのバックルをはずす。

「それからこうもいったわ。
『パパはいかれてる、でもバカだからそれがわかんないんだ!』って。
それからなにをしたと思う? 
あんたがこの前買ったラチェット・レンチを、池に放り投げたのよ。
追いかけて、やめなさいって大声でいったけど、だめだった!」

わたしたちは目をまん丸にして、ママの一言一句に圧倒されている。
そしてラチェットレンチが出てきたところで、
ダニーとわたしは声を上げて抗議する。

「おまえたちはママが嘘をついているっていうのか? え? 
答えろ、このクソガキが。
おまえたちはママがここで話をでっち上げて、おれに嘘をついたっていうのか? 
おれはおまえたちの父親なんだぞ。いったい何様のつもりだ。
おい、パンツを下げろ」

ダニーはこれまで一度もベルトで打たれたことがない。
ダニーの悲鳴は空気を切り裂き、わたしのおびえた泣き声をかき消してしまう。
パパがダニーの柔らかな肌に頑丈な腕を振り下ろすたびに、
打たれたあとがオーブンのなかのビスケットのように盛り上がっていく。

「あんたはほんとに男なの? このデブのホモ野郎、役立たずのろくでなし、くそったれ――」[P.123-126]

ママは有無をいわせずテレビのスイッチを切る。パチン!

パパはレイジーボーイのリクライニング・チェアに座ったままとどろくような声を上げると、
室内に並べてあったコンクリートの動物を大きな手でつかみ、
怒ったサイさながらママに突進する。
ママは悲鳴を上げて廊下に逃げる。
わたしたちはさっとキッチンに逃げ込むと、どうすることもできずに、
暗い廊下におっかなびっくり首を伸ばして、ふたりが走っていくのを見送る。
パパはママの首をつかまえると、ホールの突き当たりの壁に釘付けにする。
ママはぶらさがったまま、
ひょろ長いカマキリがお祈りしているような格好でゲホゲホむせている。
パパがにやけた笑いのコンクリートの三毛猫を、
オレンジ色のベルベットを貼りつけた壁に何度も何度もめり込ませるたびに、
ママの頭は跳ね上がる。
「殺される! 殺される!」

わたしは冷蔵庫の上にあったピストルを引っつかんで、
真珠色のグリップを握りしめると、ダニーとふたりで竜巻の中心に飛び込む。
ママの脚がぶらぶら揺れている。
パパが首を締め上げるにつれて、頭の揺れがどんどん小さくなっていく。
ママの頭をたたき割るつもりだ。

わたしはスロー・モーションのガゼルのようにジャンプして、
目の前の時間と空間を飛び越える。
突進するわたしの頭のなかは、ママの悲鳴でいっぱいだ。
ダニーがパパの脚に抱きつき、パパの股間に額を押しつけて、
小さな拳でパパのおなかをたたく。
わたしは撃鉄を起こすと、片手でパパの髪を後ろにぐいと引っ張って、
こめかみのやわらかなへこみにピストルを押しつける。

「やれよ、撃ちやがれ、この野郎、引き金を引いて、
おれの脳みそを壁一面にぶちまけろ。さあ、撃て!」
パパは組み立て工場の機械みたいに、
コンクリートの猫をやみくもに壁に打ちつける。
羽目板張りの壁に穴が開き、オレンジ色のベルベットを呑み込む。

「撃てといってるんだ!」
「パパをこのまま放っておいて、ジュリー。
どうかあたしを死なせて、みじめな人生を終わりにさせて!」
「いやだよ、ママ! 死なないで、マミー。パパを殺さないで、シス!」

ママがわめく。パパがわめく。ダニーがわめく。わたしがわめく。

こうして、廊下の奥につぎつぎと突っ込んだわたしたちは、
くっつきあったまま、たがいの命を救おうと、
のどをからして激しい言葉をぶつけあう。
まるで、跳ね返ったり巻き上がったりしている、
ひとつながりのきついコイルのような四人。
やがて騒ぎは頂点に近づき、堂々めぐりに突入する。
そして、胸から絞りだされた、
ガラスが割れんばかりの声がびりびりと響きあうなか、
ほとんど同時に、緊張の糸がぷつんと切れる。
パパの肩はしぼみ、ママの首を絞めていた手はゆるんで、
ママの足は夢のようにふわりと床に降り、
ピストルは銃口のまん丸い跡を残してパパのこめかみからすっと離れる。
パパにしがみついていたダニーは手を放し、無傷のわたしたちは、
アドレナリンの余韻で目をぎらつかせたまま、呆然と立ちつくしている。

わたしたちが沸騰寸前の状態に戻るには、
いったん噴きこぼれることが必要だった。

ママは自分の部屋にこそこそとすべり込み、
パパは足を引きずってテレビの前に戻り、
ダニーとわたしはたがいに背を向けて、
向かい合わせになっている自分たちの部屋に戻った。

「ジュリー、いやらしいことをされたことある?」[P.130-131]

「やったのは、リーよ。それと、近所の男たち。
あたしを仕事台にしばりつけて、で――」
声を振り絞っていう。
「電池を持ちだした」

中略

「あいつらは洗濯ばさみを、あたしの――ちくしょう
ママはむせび泣く。
「あたしは悲鳴を上げてママを呼んだ。
でもママは、地下室のドアを閉めたわ。
知っていたくせに。
ジュリー、あの人はあたしがなにをされてるか、知ってたのよ」

わたしたちはケイト先生の診療所に乗り込み、予約もないのに飛び込んだ。[P.150-152]

わたしは立った。そして座った。
ケイト先生は前と同じように、頻脈と息切れを認め、
わたしがつらそうに立ったり座ったりするのを目の当たりにした。

先生がわたしに聴診器を当てているあいだ、ママはがなり立てた。
「この子は体調のいいときが長続きしないんですよ。おわかりですか? 
先生方は、あたしがこの子を死ぬほど働かせているとか、
ろくに食べさせていないと思ってらっしゃるかもしれませんけどね。
ちゃんとした食事を作ってるのに、食べないんです。
それとも、のどに食べ物を押し込んで、
無理やり食べさせろとおっしゃるんですか?」

「ミズ・グレゴリー、あなたはできるだけのことはなさってます。
なかには、神経質な子供もいるんですよ。
もし原因が心臓にあるのなら、
ご心配されていることのほとんどは説明がつくんですが。
ジュリー、もう一度立ってみて」

「この子を4Hクラブに入れているんですが、すぐに疲れてしまうんです。
車に乗れば、酔って頭が痛くなるし。
わたしはちゃんとした母親なのに、
どうしてこんな目にあわなきゃならないんでしょう? 
どうしてわたしが罰を受けるんです?」

「サンディー」ケイト先生は小さな丸椅子を回して、ママに向き直った。
「わたしは何としても、ジュリーを見てくれる専門家を見つけるつもりです。
ひとり、心当たりがあるんですよ。
国内でも指折りの心臓外来がある、オハイオ州立大学に。
あなたはほんとうによくやっていますよ」
先生はわたしのほうを向くと、子供っぽいしゃべり方で話しかけた。
「そうでしょ、ジュリー。
ママはほんとうによくやってるっていってあげて。
『ねえママ、心配しないで、なにもかも解決するから!』って」
それからまたママに向き直った。
「子供が病気になったときが、母親の忍耐の見せどころなんです。
わたしも、ジュリーのどこが悪いのか、
突きとめてくれそうな人を手を尽くして探しますから」

ママは両手に埋めていた顔を上げて、片目をぬぐった。
「ありがとうございます、ケイト先生。
もう、自分が悪かったとしか思えなくって。
自分がなにかよくないことをしたからじゃないか、
なにか足りないのにそうしてない、
充分にできていないからじゃないかって。
一生懸命やっているんですけど、どこにも行き場がないんです。
だれも耳を貸してくれない。
わたしのためになにかしてくれる人なんかいやしない。
わかっていただけます?」

「サンディー、あなたは立派な母親ですし、
ジュリーのためにとてもがんばっていらっしゃいます。
わたしたちみんなで、力を合わせてがんばりましょう。
わたしも原因を突きとめるお手伝いをさせていただきますから。
お約束します」

わたしは朝食抜きで、ランチ代を持たずに学校に通っていた。[P.144_146]

ランチを食べるお金がないなんて、ケイト先生に話せなかった。
里子のランチ代を州が払ってくれるなら、
わたしの分も州が払うべきだとママがいっているなんて、話せっこない。
学校が出すべきなのに、
二十ドルもよけいなお金を出せないというのがママのいいぶんだ。
一方、ママはサインすることになっていたランチ引換券のひとつ目のつづりを、
わたしがなくしたといいはっていた。
ふたつ目のつづりは、キッチンの戸棚にしまい込まれたまま、
サインしてもらうのを待っている。
仕方なくママの財布から小銭を少し抜き取ったけど、
それで買えるのは、せいぜいリトル・デビーのスナック・ケーキくらいだ。
だから、朝は冷蔵庫のクール・ホイップをひと匙こっそりとなめ、
昼は小銭で買えるだけのジャンク・フードを食べて、何とかしのいだ。

中学校に通うようになると、ママは以前医者から食物アレルギーのことをいわれたのを思いだして、わたしにはいろいろなアレルギーがあるのだと決めつけた。[P.154-156]

それまでは毎朝、ママがまわりはこんがり、
黄身はトーストをつけて食べられるように半熟に焼いてくれた目玉焼きに
バターをたっぷり塗ったトーストをつけて、残さず平らげていた。
でも、ママはもう朝食を作らない。
わたしは冷蔵庫を漁って、卵のパックを引っ張りだした。

「ジュリー、なんてことをするの。
自分がアレルギーだってこと、わかってるでしょ!」

卵を戻して、ベーコンに手を伸ばす。

「ちょっと、この前ケイト先生に、
肉を食べると具合が悪くなるって話したばかりでしょ。
シュガー・ポップでいいじゃないの。
でも、粉ミルクを使ってね。
量は全体が湿るくらいにしておくのよ。
乳糖がいけないかもしれないんだから」

ママは女性誌の巻末ページを見て、
アルミ包装された体重を増やすウエハースをつぎからつぎへと注文した。
わたしは朝から晩まで、そのウエハースばかりもぐもぐ食べたけど、
体重はたいして変わらなかったし、どのみち背がやたらと伸びて、
太るどころではなかった。

学校から帰ってくると、ママが大きなボウルでクッキー生地を作っていたり、
泡立て器でケーキ・ミックスを混ぜていたりすることもあった。

「ほら、シス、味見して。おいしいでしょ? 
ボウルごとあっちに持っていって、
ダニーと一緒にテレビを見ながら食べていいわよ。
ひと休みして、力をつけないと」

ボウルに入っていたチョコレート・ケーキ・ミックスを
そのままスプーンに山盛りすくい取って口に押し込んでいると、
眠気が押し寄せてきた。
最後に、指先についていた生地をなめ、
ボウルの外側に垂れている黄色いケーキ種をこそげ取る。
そのころにはもう、おなかがいっぱいになっていた。

でも、頭のほうはぼんやりするばかりだった。

中略

ママからなにかいわれても、うわの空だった。
いまいったことを繰り返すようにといわれても、思いだせないのだ。

ママは何年も前から、わたしの髪をブロンドに脱色していた。[P.157-158]

黒髪だとどう思われるか。
ママによると、黒い髪はだれとでも寝る尻軽女のしるしだという。
白っぽいブロンドは、純潔のあかし。根拠はなかった。
ふだんはママのいいつけで、<ヘア・ハプニング>の
八十歳くらいに見えるおばあさんに明るい髪に染めてもらい、
それから家で、ママに仕上げをしてもらう。
ママはミルク色のビニールの手袋をはめると、
頭皮に脱色剤を垂らして指先ですり込み、
ちょっぴり残った茶色の部分をすっかり消し去った。

「サンディー、いいかげんにしろ。
放っておいてやったらどうだ? いかれた頭にするのはよせ」

「だって、ダン、茶色いところが残ってたら、水商売の女みたいじゃないの。
それから、あたしに向かって神様の名前を振りかざしても無駄よ。
この子はブロンドでないといけないの!」

「だが、これはブロンドじゃないだろ。緑色だ!」

毛染めは、どう見ても失敗だった。

「ええ、そうよ! でも、間抜けの中学生のガキどもが、
深緑っぽい色合いに気づくと思う? かんべんしてよ! 
あいつらは子供なのよ、ダーン。
あんたのほうこそいかれてるわ、ダン、いかれてるわよ!」

わたしは鼻をすすりながら、困惑していることを打ち明けた。[P.190]

ミッシーは言葉を失った。鐘が鳴った。
ミッシーはあとで手紙を書くといい、
ロッカーのあいだをジグザグに進んで、見えなくなった。

そのあと、ほかの友人たちは一日中わたしに冷たかった。
五時間目の歴史のとき、手紙が回ってきた。
ミッシーの幅広の文字でこう書いてある。
「全部あなたの作り話で、わたしたちの同情を買おうとしたんでしょ。
うまくいかなかったわね。
どこのおかあさんだってそんなことはしないし、嘘をつく人は嫌いです。
人間のくずよ。わたしたちは、もうあなたと付き合いません」
その下には、十人の女の子全員の名前が走り書きしてあった。

わたしたち、ママとわたしと心臓医の先生は、オハイオ州立大学病院の廊下に立っていた。[P.191-194]

十代の子は単に疲れて、体調を崩すことがあるのだと先生は説明する。
わたしの心臓からは雑音が聞こえなかった。
もう、これ以上できることはあまりないのだ、と。

ママはまるで先生の同僚みたいに、小声でひそひそと話している。
昔なじみみたいに、顔をくっつけて。
これまで一緒に行なってきた検査について思いをめぐらせ、
今回の期待はずれの結果について考えているのだ。

「うーん、ねえ、マイケル。
この際、これからの取り組みについて、計画を一緒に立てましょうよ。
今回の検査で結果が出なかったことを考えると、
いよいよ開胸手術に踏み切って、
今度こそ、きっぱり原因を突き止めるべきじゃないかしら」

先生がママをじっと見た。

「ミズ・グレゴリー、ジュリーに心臓手術の必要はありません。
きっと、喜んでくださることと思いますが:
せきばらいをして、つづける。
「今回の検査では、
そういった体を傷つける方法がジュリーのためになると思われる結果は、
なにひとつ出ませんでした。
時間がたてば、心臓の症状がもっとはっきりして、
われわれが判断を下せるようになるでしょうし、
ジュリー自身が成長して症状を克服できるようになるかもしれません。
ジュリーはせいぜい憎帽弁逸脱症の前兆が出ているのかもしれないという程度なのです」

「嘘でしょ」

「いいえ、ほんとうです。
われわれが検査したところ、ジュリーは正常の範囲に入ります」

「信じられない! ぜったいに信じない! 
もっと詳しく調べて、開胸手術をする気はないの? 
マイケル、最後まで調べるっていう話だったじゃない。
あたしの力になってくれるっていったでしょ」

「いまでも、ジュリーの病気を突き止める手助けをしたいと思っていますよ、
ミズ・グレゴリー。でも、心臓手術は必要ないんです。
ふつう、親御さんだったら大喜びして――」

「へえ、それっぽっち? あなたにできることは、それだけ? 
あわてて、あたしを放りだすだけなの? 
まったく、どうしてほかの母親みたいに、まともな子供が持てないんだろう? 
あたしはいい母親で、4Hクラブにも入れているし、乗馬だってやらせている、
プールにだってキャンプにだって行かせているのに。
なんでも、かんでも、やってやってる。
それなのに、まるであたしが悪いことをしているみたいな言い草じゃない。
どうして、あたしがこんな目に合わなきゃいけないの」
ママは腕でわたしを後ろに押しやった。

わたしはママの左脚の後ろに立って、先生を見すえてSOSを送った。
わたしを行かせないで、ママに連れていかせないで。

「ミズ・グレゴリー、あなたがいい母親じゃないなんていっていません。
でも、ここではもうできることがないのです。
心臓手術のことはあきらめてください。以上です」
そういうと、先生は背を向けて去っていった。

「後悔するのは、そっちのほうよ」
ママは金切り声でいう。
「この子が、あんたのせいで死んだときに。そうよ。
こんな役立たずなまねをして、訴えてやるんだから。
十三歳の女の子の悪いところも見つけられないなんて! 
頭がおかしいのよ! この子は病気なの。
聞いてる? この子は病気なのよ!」

初めて「独立した未成年」という言葉を聞いたのは、十年生のときだ。[P.207-208]

ひとりで生活し、自分で働いて生計を立て、両親から解放された子供たち! 
スクールカウンセラーに相談し、何枚かの書類に署名するだけで、
独立する準備を整えてくれる。わたしは家を出るつもりだった。マリアも連れて。

わたしは学校の非常勤カウンセラーであるマークス先生との面会を取りつけた。
そして穏やかに、理性的に、自分が必要としていることを説明した。
すぐにでも署名できるようにペンを持って。

「それで、どうして家を出たいんだね?」

そんな答えは準備していなかった。
理由を話さなくてはならないとは、思いもしなかったのだ。
思い切っていくつかの出来事を話すと、先生は眉をひそめた。

マークス先生はよく考えて、なにか案が浮かんだらオフィスに呼ぶといってくれた。
でも、先生が呼びだしたのは、わたしではなく、ママとパパだった。

その夜、ママはキッチンでわたしの髪をつかみ、床にたたきつけた。
パパは調理台の両端をつかんで勢いをつけ、
脚をうしろに何度も振り上げては、
つま先に鋼がついているブーツをわたしのおなかにめり込ませた。

それから十年生のあいだずっと、
マークス先生は毎週美術の時間にわたしを呼びだして、
想像過多のカウンセリングをした。

ほぼ一ヵ月おきに、ママが銃をくわえているとか、睡眠薬のびんを握って放さないとか、その手の電話がダニーからかかってくる。[P.269]

ママがボブと別れ、パパのもとに戻ろうとしたら、パパには新しい恋人ができていた。
今回はパパのトラックに立てこもり、死ぬつもりだ。本気で。
薬を飲んだとすれば、何錠飲んだのか、ダニーにはわからない。
わたしは四十マイル離れたパパのガレージに駆けつけた。
弟は薄く色が付いた窓越しに、
もうすぐシシーが来るからと大声でいっていた。

いま、わたしはセラピストだ。
染みの付いたトラックのシートに座り、ママの背中にぴったり寄り添い、
愛情を示し、しっかりびんを握った指を放させる。

わたしはファミリーセンターのマーナの緊急予約を取った。[P.279-281]

マーナは収入に応じて料金が変わるシステムを採用しているセラピストで、
わたしはレイとの関係から逃れようと、ここ二カ月ほど通っている。
秘密の場所から料金五ドルを引っ張りだし、
車に乗り込んで、ぼうっとしたままマーナのもとに向かった。
空ろなまま、待合室に座る。
自分が崩れるのを待っているのだ。
ぎりぎりのところで踏みとどまり、
これ以上自分を見失わずにいるだけで精一杯だった。

マーナの部屋のソファに腰を下ろすと、
わたしは横向きに寝て、ヒステリックにあえいだ。
そしてなんとか授業でのこと、
自分の身に起きたことについて知ったことを説明した。
すべてが自分に起きたのだから、どれも当てはまるのだから、正しいに違いないと。
母のこと、心臓のカテーテル検査のこと、悪いところが見つからなかったこと、
グランマ・マッジに食中毒にされて緊急治療室に連れていかれたこと、
鼻の手術を受けて顔にギプスをしたこと、尿道に管を入れられたこと。
それから、それから! 
十三歳のとき看護婦にうっかり口をすべらせたのに、
真実が鎮静剤で眠らされてしまったことも話した。

マーナは落ち着いて、切れ切れの話をつなげようとした。
まだレイの問題を解決しておらず、初めて聞いた話ばかりだ。
きっと、頭がおかしくなったと思っているのだろう。
慰めの言葉もいわず、まったく冷静で、関心を示さない。
音を立てて咳止めドロップの紙をむき、またひとつ口に放り込む。

そして、ひざの上で手を組んだ。

「(ドロップをなめて)ねえジュリー、患者さんが動揺するとね(ズルッ)、
家に帰って、気持ちいいお風呂にながーく浸かって、
リラックスしなさいって勧めているの。
温かいお風呂に入ったり、日記を(カリッ)書いたりしたことはある?」

インド人の精神科医も、わたしの頭がおかしいのだと断定した。[P.283]

「いいでしょう。ええっと、代理によるムンヒハウゼンでしたっけ? 
聞いたことがありませんね」
ぼさぼさの眉の下から疑わしそうにわたしを見て、
適当な向精神薬を処方できるように、
特徴的な妄想が顔を出すのを待っている。

「もう一度、説明してもらえる?」

「ママがあたしの病気をでっち上げていたことを知ってたの?」[P.299]

「ジュリー、おまえはそのことをひどいと思っているようだな。
いいか、よく聞けよ。
おれが十歳だったとき――まだ小さな子供だ――裏庭の木から落ちた。
そのとき、チェスターは椅子に座ってテレビを見ていた。
おれは自分のほうから腕を見せにいかなきゃならなかった。
折れていることはわかっていた。
でも、チェスターは番組が終わるまで、
病院に連れていってくれさえしなかった。
腕が折れていたのに、病院に行くのに三十分も待たされたんだ」

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