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書籍と雑誌の要約と解説

こわいカゼ薬

子供たちが急死・ライ症候群

装丁
こわいカゼ薬 こわいカゼ薬
本畝淑子&宮田雄祐
三一書房(三一新書969)
ISBN4-380-85010-2
C0236
1985/12/31
¥950
解説

今ここに改めて、当時のメモを見ながら、
寿子の死に至るまでの一刻・一刻を振り返ってみる時、背筋の凍る思いがする。
私は母親としてあまりにも無知であった。
子育てをするに当って、当然持っておくべき
最低限度の医学的知識さえもなかったことが責められてならない。
あの日から三年半、私達は必死で医学と医療に関する本を読み、
勉強会や医療講座に出席して来た。
少しは医学的知識も身についた今、
自分の犯したあまりにも大きな「無知という罪」を、
心から懺悔し許しを乞うことが、この本を執筆する動機だった。[P.55]

目次
  1. 被害者の立場から
    ライ症候群親の会代表 本畝淑子
    1. カゼをひいて急死
      1. 平穏な暮しがあった
      2. 死に至るまでの刻一刻
      3. 夫婦の決意
    2. ゼロからの出発
      1. カゼの熱を恐れるな!
      2. 間違っていたカゼ治療
      3. これが医者の正体だった
      4. 「救済基金」は機能せず
    3. ライ症候群患者からの手紙
      1. 大阪府より
      2. 埼玉県より
      3. 医者たちよ! 親の肉声を聞け
    4. 日本におけるライ症候群の実態
      1. 厚生省及びライ症候群研究班の怠慢
      2. 「親の会」結成まで
      3. アンケート調査から
    5. アメリカのライ症候群対策
      1. FDA・CDCの報告
      2. 民間のキャンペーン活動
    6. 厚生省交渉実行委員会結成まで
      1. もう厚生省はいらない
      2. 薬害・医療被害団体との連帯
      3. 厚生省交渉実行委員会結成
    7. 賢い市民になろう
      1. 医療従事者に告ぐ
      2. お父さん、お母さん目を覚して!
      3. 消費者運動・市民運動と共に
  2. 小児科医の立場から
    大阪市立大学医学部小児科 宮田雄祐
    1. “カゼ薬”の常識
      1. 子供がカゼをひいたとき
      2. あなたの求めるカゼ薬
      3. カゼを治す薬はないのです
      4. カゼは自然に治ります
      5. カゼを軽く済ませたり、早く治す薬はありません
    2. カゼ治療での医療被害
      1. 薬は全て毒である
      2. ライ症候群と解熱剤
      3. 日本のライ症候群の実態
      4. カゼの注射で筋短縮症の大被害
    3. カゼの薬の副作用のいろいろ
      1. 知っておくべき抗生剤の副作用
      2. 熱に解熱剤は必要か
      3. 子供のカゼと咳止め
      4. カゼの鼻水に抗ヒスタミン剤は不要
      5. こんなに恐い下痢止め薬
      6. カゼの吐き気に吐き気止め不要
      7. インフルエンザ集団接種の怪
    4. カゼに不必要な薬が多い理由
      1. 治療は医学的に必要なものに止めること
      2. 医学的適応のない治療の横行
      3. 正しい治療をした医師へのむくい
      4. 不必要な治療を強いる医療政策
    5. 医療公害から身を守るために
      1. カゼと医療公害
      2. 大衆に迎合するわが国の医療風土
      3. 健康な時に正しい医療の勉強を
  3. 臨床薬理の立場から
    関西医療問題連絡会議 待田洋
    1. 子どもの薬被害
      1. 薬を正しく使うために
      2. 問題山積みの小児薬物療法
      3. 大人と異なる薬の排出速度
      4. 薬情報についていけない医師
    2. 遅れている日本の薬務行政
      1. アメリカの後を追うわが国の薬務行政
      2. 被害に学んだアメリカの市民運動
    3. こわい薬の副作用
      1. 百年の歴史をもつアスピリン
      2. アスピリンとライ症候群
      3. 感冒薬の主流アセトアミノフェン
      4. 腎毒性の強いフェナセチン
      5. アセトアミノフェン類の副作用
      6. 薬の発癌性
      7. アメリカでは姿を消したスルピリン
      8. 約半数に副作用が現われるインドメタシン
      9. メフェナム酸は使用禁
      10. 使い方のむずかしい副腎皮質ホルモン
      11. 感冒には効かない抗ヒスタミン薬
      12. 副作用の強い制吐剤
文献
  • 砂原茂一『医者と患者と病院と』[P.49]
  • 高野哲夫『だれのための薬か』[P.51]
  • 『日本医事新報』No.3025(1982年)[P.52]
  • 厚生省薬務局『医薬品副作用被害救済制度の解説』[P.64]
  • 高橋光正『薬のひろばNo.13』[P.72]
  • 『医原病』[P.166]
  • 患者の人権と医の倫理『ドキュメント生体実験』[P.198]
  • ラルフ・ネーダー『アメリカは燃えている』[P.205]
校正
  • 私は「基金」への妄想を捨てた。→幻想[P.70]

内容

ライ症候群親の会代表の次女・本畝寿子の症例[P.19-29]

一九八二年一月末に、まず姉の綾子(六歳)が高熱を出す。
日下耳鼻科にて顆粒の解熱剤(幼児用PL顆粒)を投与されるが、
本人がいやがり、服用せず、一週間寝込んで回復した。
次に二月初め夫が高熱を出し、三、四日間寝込んで回復。薬は服用せず。
それから寿子と私がほぼ同じ頃からカゼ気味となる。

次の服用薬の欄は、寿子の死後調査したものである。

 

本畝寿子二歳八ヵ月 一二kg

〔一九八二年二月九日(火)〕

少々カゼ気味なのか、鼻水が出る。
目がうるんだ状態だが、平熱のまま。
午後一時半まで保育園へ行く。

〔二月一〇日(水)〕

前日と同じような状態。保育園へ行く。

〔二月一一日(木)〕

三八度九分の発熱。鼻水が出て、目がうるむ。
あいにく建国記念日で休日のため、病院へ行かれず、
平素より「三八度以上発熱した時には、この解熱剤を飲ませなさい」
と日下医師より指導されていたので、姉のPL顆粒の半分量を寿子に飲ませる。

服用薬――幼児用PL顆粒(シオノギ製薬) 一日三回計三g服用。

〔二月一二日(金)〕

平熱に戻っている。
保育園を休むよう寿子に話すが、
「どいしぇんしぇ、まってる」といって、行きたがったので、
午前中のみ行くことにした。
しかし、午前一二時お迎えに行くと、
「たいぎい、だっこして」と言い、歩きたがらない。
夕方から微熱が出始めたので、夕食後解熱剤を与える。

服用薬――幼児用PL顆粒 一日一回計一g服用。

〔二月一三日(土)〕

朝から三九度二分の発熱。
喉を痛がり、全身がだるそうであったため、保育園は休む。
姉綾子が日下耳鼻科へ通っていたため、寿子も一緒に受診する。
診察後に日下医師は、
「カゼですね。この抗生物質をしっかり飲ませなさい。
熱がある間は、この解熱剤を一日三回飲ませなさい。
それでも平熱にならない時は注射をしてあげますから、
夜間でもいい連れて来なさいね」と言われ投薬を受ける。

なんと親切な医師だろうと感動し、深々と頭を下げ感謝して帰宅する。

服用薬――幼児用PL顆粒、一日三回計三g服用。
マドレキシンドライシロップ(抗生剤で明治製薬)、一日四回計五g服用。

〔二月一四日(日)〕

夕方からは平熱に戻り、家の中で遊ぶ。

服用薬――幼児用PL顆粒、一日三回計三g服用。
マドレキシンドライシロップ、一日四回計五g服用。

〔二月一五日(月)〕

三七度二分の発熱。
咽喉がつまったようにゼーゼーと苦しそうになり、食欲がなく、全身がだるそう。
このような状態は経験がなく、気管支炎になったかと驚き、
夫婦で寿子を小児科へ転院させる。
川田小児科医師は、

「軽い気管支炎です。
今年の冬は肺炎になる子もいるが、
これくらい(二歳八ヵ月)大きくなっていれば大丈夫でしょう。
薬をきちんと飲ませるように」との診断。
シロップ投薬。
この日から寿子は、寝ついてしまう。

服用薬――バストシリンドライシロップ(合成ペニシリンで武田製薬)、一日三回計三g服用。
ポンタールシロップ(鎮痛解熱剤で三共製薬)、一日三回計三ml服用。
アスベリンシロップ(鎮咳剤)、一日三回計三ml服用。
アリメジンシロップ(抗ヒスタミン剤)、一日三回計三ml服用。

〔二月一六日(火)〕

朝目が覚めてみると、寿子の両まぶたがパンパンに腫れている。
微熱があり、喉がつまったように、大きくゼーゼーいう。
激しい頭痛と腰痛を訴える。
座ることが出来ないほど、体がだるい。
食欲がなくなる。

素人目にも、あまりの急変にうろたえ、開院の午前九時になるのを待ち構えて、
川田小児科へ電話をする。

「院長先生をお願いします」
「どうしたのですか?」と看護婦。
「子供のまぶたがパンパンに腫れているんです」
「じゃあ眼科へ行ったら」と看護婦。
「いいえ、とにかく先生に代って下さい」

「先生、寿子のまぶたがパンパンに腫れているんです。どうしたらいいのでしょうか」
「眼科へ行って検査をしてもらって下さい」
「えっ!眼科へ行くんですか?……じゃあどこの眼科へ行けばいいのですか?」
「この辺なら、木村先生でも泉先生でも井之川先生でもいらっしゃるでしょう」
「はー……」

この日の朝は、小雪の舞う寒い日だった。
こんな中を、ぐったりした娘に着がえをさせて連れ出す気になれず、
それで一番に川田小児科へ電話をして、医師の指示を仰ぎたかった。
「今すぐ総合病院へ転院しなさい」と言われれば、すぐ出かけようと思い、
私は熱っぽい体を起こして着がえをすませ、電話をかけたのに、
眼科へ行くようにという予期せぬ指示に、すっかり動転してしまった。

近所の奥さんにすぐ来てもらった。
寿子の様子がただ事でないこと、私自身も発熱していること、
眼科へ受診するよう指示を受けたこと等を話した。
それでも川田医師のすすめた開業の眼科医に行く気にはなれず、
定評のある近くの済生会病院眼科へ、予約を取りにその奥さんに走ってもらった。
気管支炎を起こしている子供のまぶたが腫れたので、
一番に診てほしい旨、伝えておいてもらった。
その間に、寿子を起こし、着がえをし、オーバーにすっぽりくるんで、
寒中に連れ出すことを不安に思いながら、タクシーで病院へ走った。
すぐに暗室での検査が始まった。

「目にはなんの傷もありません。まぶたの腫れも、風邪が治ればなくなるでしょう」
「でも先生、この子の目は、二重のパッチリした目なんです。
それが、こんなに見る影もないほど腫れ上ってしまっているんですよ……」
「じゃ、点眼薬出しておきますから」
「はー……」

薬局で点眼薬を待つ間も、寿子は長椅子にじっと座っておれないほど全身がだるく、
横に倒れそうになって、こらえている。
タクシーで帰宅した。
何かふっきれない不安だけが残った。
点眼薬は、本人がいやがったので一度も使用しない。
眠り続ける。

いつもは、私の作った食事はなんでも、

「ひちゃこ、じぇんぶたべた」

といって、おいしそうに食べてくれるのに、ほんの少ししか食べない。
その上、私も発熱と激痛に苦しめられて、充分な食事の仕度が出来ない。

夕方、夫が川田小児科へ、明日からの薬をもらいに行く。

服用薬――前日と全く同じ。

〔二月一七日(水)〕

両方のまぶたは腫れ上ったままである。
あまり話をしない。
ただ眠り続ける。
熱はないが、頭痛、特にうなじの痛みを訴える。
夜には氷枕をするが、いやがるので止める。
節々を痛がるので、体をなでてやるとスヤスヤ長時間眠り続ける。
しかし、お布団の中にいながら足がつめたく、アンカをする。
食欲がなく、隣の奥さんが差し入れてくれたおじやを少し食べる。
お茶をほしがる。
喉はいぜんとゼーゼー苦しそうである。
薬をいやがり始めるが、なだめすかして、ヤクルトにまぜて飲ませ続ける。

「お薬きちんと飲みなさいって、お医者さんいったでしょ。
飲まないと治らないからね。
だから飲んでちょうだいね、ひさこちゃん」

寿子は、だまって飲む。
二人は枕を並べて一日中眠り続けた。
タイマーまでセットしてお薬はきちんと飲ませているのに、
少しも良くならないことが、不安でならなかった。

「寿子、明日は元気になるかしらね、お父さん」
「そうだな……カゼには安静が一番だから……」

服用薬――ポンタールシロップを除き、他は全て一昨日と同じ。

〔二月一八日(木)〕

平熱に戻るが、両まぶたは腫れ上がったままである。
午前中は
ただスヤスヤ眠り続ける。
頭痛、背中とうなじの痛みがある。

「いや、このおくしゅりにがい!」

非常に薬をいやがるので夕食後はもう飲ませない。
夜になって突然上半身を起こして、息を苦しそうに吸い込む。
喉はゼーゼーのまま。
少し落着いて、みかんをほしがる。
一粒ずつ皮を取って口に入れてあげると三個を一度に食べる。
真夜中から尿が出にくくなる。
何度も何度も「おしっこ」というので、夫と交代でトイレへだっこして行くが、出にくい。
その内、お布団に少しこぼす。
いやがるのをなだめて、おむつを当てると、安心したのか、眠り始めた。
午前四時になっていた。

「あなた、川田病院のお薬じゃ全然良くならないわ。
明朝一番で、呉共済病院へ連れていきます」
「うん、ボクも学校休んでもいいから」

夫と私はウトウト二時間ほど眠った。

服用薬――前日と同じ。しかし夜からは飲まず。

〔二月一九日(金)〕

六時過ぎ、両まぶたの腫れが引いている! 熱もない。
快方に向かっているのかもしれない。
それなのに、目が覚めてから、ほとんど話をせず、ボーッと窓の方ばかり見ている。
うつろな表情である。
ほんの少し朝食を食べただけ。

「今日、学校休もうか?」
「うーん、腫れも引いているし、私一人でタクシーで病院へ連れて行けますから」

夫は、いつものように寿子と私の枕元にやって来た。

「ひさこちゃんどんな? お父ちゃん学校へ行ってくるからね。早く帰って来るよ」

寿子は一言も話さず、じーっとお父さんの目を見ている。
両手で背広の袖口をしっかりにぎったまま、離そうとせずじーっと見つめている。

「お父さん学校におくれるよ。ごめんね、ひさこちゃん、おてて離してね」

お父さんは、ゆっくり寿子の指を一つ一つ離そうとするが、
更に一層しっかり握りしめている。
お父さんは、すまなそうに、
また「ごめんね、ひさこちゃん、行って来るよ」と出かけて行った。

私は熱っぽい体を起こして着がえをする。
そこへ、隣の奥さんが、寿子と私の様子を見に来てくれた。
四日間も寝たままなら、体もつらかろうと、
奥さんが寿子をだっこすると、そり返っていやがった。
まるで、寿子でないみたいないやがりようで……。
早朝からの容態を話し、
すぐに、総合病院へ予約に行ってくれるよう頼み、保険証を渡した。
順番を取ってもらったので、さあ、寿子の着がえをしようとしたら……
おや……ねんねしたのかしら……でも……何か変ね……どうしたのだろう……。

「ちゃこ、ちゃこ、病院へ行くのよ、おきて」

まぶたがうっすら開き……口も少し開けて……いつもの寝顔と違う……まさか! 
私はとっさに右手親指付け根に指を当てた。
脈がない! 心臓に耳を当てた。鼓動がない! 午前九時五〇分。

それから救急車が呼ばれ、病院で蘇生器をつけられ、六時間息を吹き返した後、
一九八二年二月一九日午後四時二八分、寿子は二歳八ヵ月で、永遠にまぶたを閉じた。

担当医は別室に夫を招き入れ、レントゲン写真や血液検査のデータを見ながら
「ライ症候群に間違いありません」と告げた。

医者の薄学[P.33]

あちこちの医者達に、ライ症候群について聞き歩く中で、
彼らは薄学のほどを披露してくれた。
国立の小児科部長は私達夫婦を前に、
「アスピリンは非常に怖いので、当小児科では三年前から使用を中止しています。
今は、タンデリールを使っています」と言った。
私は教えられた通り投稿してしまったのである。
タンデリールとは、チバガイギー社の消炎鎮痛剤で、
翌年、一九八四年二月、毎日新聞社によって、
世界中に副作用による死者が出ていると報道された薬の一つだったのだ。
その時の新聞記事によれば、
「ブタゾリジンとタンデリールによって世界で一、一八二人の副作用死!
連続投与後に発症、激痛、内臓ボロボロ、悲惨な死」とあるではないか。

風邪に抗生物質は不要[P.40]

アメリカのネルソン『小児科学』には次のように明記してある。

「カゼの治療。特に治療法はない。
抗生物質療法は、病気の経過にいかなる効果も与えない」

私は、医学生からネルソン『小児科学』を借りて来た。あった! 
この分の次には Bed rest is generally recommended. と書いてある。
つまりベッドで寝ていればいいというのである。
日本で出版されている医学生・医師用の内科学の分厚い本も開いてみた。
どこにもここにも、――カゼに特効薬はない。対症療法である――と書いてある。

日下耳鼻科が解熱剤を処方する訳[P.43-44]

調べれば調べるほど、文献を読めば読むほど、
何故こんな怖い薬を「しっかり飲ませない」などと、医者は言ったのだろうか。
私は日下医師に聞かずにはおれなくなった。

「先生は、寿子をカゼと診断されました。
カゼの熱を恐れる必要はなかった筈ですね。
ではどうして解熱剤を投与なさったのですか?」

「だって君、熱を下げなかったら患者がこなくなるよ」

寿子にとって、薬がどうしても必要だったから止むを得ず投与したのではなくて、
患者を自分の病院に引きつけておくために、薬を出したと、
彼は自分の口から証明してみせた。
あっという間に解熱させることが、
「あの病院の薬はよく効くわ」という評判につながるので投薬するのだと、
彼は自ら認めた。

本畝淑子の医薬品副作用被害救済基金体験談[P.56-62_69]

四月三日、「基金」の用紙と説明書とをもって、二人で日下耳鼻科へ出かけ、
その場で記入してもらった。

四月四日、川田小児科へ出向き、その場で記入してもらった。
四月五日、前もって電話を入れ、用件を説明しておいた後に、呉共済病院を二人で尋ねた。

驚いたことに、四畳半ほどの狭っくるしい部屋には、
河原小児科部長他三名の医師が集まって、私達を待っていた。
六人の大人達の人いきれで、ムンムンする中に、
テープレコーダーの回る音だけが不気味に低く響いていた。

私達は話し始めた。
あれほど元気で病気一つしたことのない娘が、何故急死したのか、
どうしても納得がいかないこと。
インフルエンザ――アスピリン――ライ症候群という図式に当てはまる以上、
「基金」に申し出て、薬害であったことを証明したいこと。
この病院にはたった六時間お世話になっただけだが、
その間に行なわれた血液検査の結果とレントゲン写真しか、私達には残されておらず、
今後の医学的究明のために、是非とも提示してほしいこと等々。
四人の医者に取り囲まれながら、これだけのことを話すのがやっとであったが、
河原小児科部長は、質問に答えてこう言った。

「あんたら素人がそんなことせんでも、うちはモニター病院だから、
うちから全部厚生省へは連絡するんだから。
しかし、科学者として、被疑薬をアスピリンとは書けない。
だからとても『基金』とやらへの診断書は書けないな。
うちの甥が、やっぱりライ症候群になりましてね。
これはまだ原因がわかっていないし、たとえ生き残ってもひどい脳症を残すんだ。
死んで親孝行したじゃあないか、と母親を納得させましたよ。

奥さん(私のこと)、一時的な悲しみは早く忘れるんですな。
あとは供養があるだけですよ。
奥さん何歳ですか? 三五歳になったばかり? まだまだこれからじゃないですか。
私の子は四二歳の時の子ですよ。ハッハッハッ」

三時間も費やした結果がこれであった。
私達夫婦が子供を生み直すか否かを、彼に決めてもらうつもりはない。
一人の人間の死を「一時的な悲しみ」と片付け、
「死んだ親孝行した」という発想に、ゾッする思いがした。
医者とはこんな存在だったのか、という怒りがこの日からくすぶり始めた。

帰宅後さっそく、東京のサンシャインビルにある「基金」へ、電話を入れた。
病院がこの制度について、何一つ知識を持っていないこと、
「被疑薬」という欄を、医者に書かせるのは無理であること、
六時間の事実関係だけを書いてほしいと言ったが、
それも受け入れられなかったこと、等を放したが、
お役人達にも何も通じず、呉共病院へ電話一本入れることも出来ないと言った。

そこで、河原小児科部長の言った
「一介の雇われ医者の身分では『基金』の診断書は書けませんよ。
なんなら、管理体制側に話すんですね」の言葉通り、
私は呉共済病院院長宛に手紙を書いた。
便箋にぎっしり六枚書き連ねた。

「突然にお便りする無礼を、どうぞお許し下さいませ。
その節は河原小児科部長を始め小児科の先生方には、突然の患者でありましたのに、
本当にお世話になりまして、心より感謝しております。
わずか六時間半でも、命をよみがえらせて戴きました事、感謝に耐えません。
……中略……このような悲しい幼な子が二度と出ないために、
私達は『基金』へ申し出る事にしました。
ライ症候群の原因に確証がもてない現段階で、
アスピリンを“被疑薬”とは書けないと言われるのも、当然なことだと理解できます。
この点は、中央薬事審議会が決定することと存じますので、
六時間半の事実関係だけを書いて下さいますよう、お願い申し上げます。
(一九八二年四月二九日)」

翌日、夫の職場に電話がかかった。
すぐ院長室へ来るように、という事だった。
夫は会議を途中で抜け出し一人で出かけた。
院長室に一歩入るなり、

「あんた! 金がほしいんか!!」

これが呉共済病院院長の答えだった。
これが私の手紙に対する全ての答えだった。

「基金」の説明書も、私の手紙も、アメリカの資料も、一切がつき返された。
そして三時間、夫は一人、院長と河原小児科部長と薬局長とに取り囲まれた。

私達の憤りは「ゴーッ」と音を立てて燃え上った。
寿子の棺が炉の中に消えるや否や鳴り響いた、
あの魂までも焼きつくす音に、あまりにも似ていた。

屈するものか! 白い巨塔! 
いま呉の町に高々とそびえる一一階建ての彼らの病棟は、
まさしくバベルの虚塔にしかすぎないと、万人に知らせるまで、私達は屈しない。

呉共済病院へは、これ以後も再三足を運び電話もしたが、らちがあかない。
とうとう、私達は弁護士事務所をあちこち回り始めた。

聞き流すだけの弁護士達の中でやっと、
未熟児網膜症の原告側に立つ小笠豊弁護士に巡り会えた。
六月一五日、呉共済病院より「来るように」と電話が入った際、
この弁護士にも同行願った。
二時間にわたる厳しいやり取りの末、
「診断書は書く」が「基金」用の用紙には書かないという結論になった。
何故かこの席には、日下耳鼻科医も川田小児科医も呼ばれていたが、
突然の弁護士の登場に、すっかり予定が狂ってしまったらしい。
今日もまた、テープレコーダーがずっと回されていた。
この日からまた十数回に及ぶ督促の末、「診断書」を入手した。
なんと最初の訪問から四ヵ月半かかって入手した事になる。

河原小児科部長の言った「うちはモニター病院だから、
うちから全部厚生省へ連絡するから」という言葉を信じて、
夫は間もなく「厚生省」へ行ったが、何一つ報告はされていなかった。
その上、ライ症候群の患者の実態を知りたく、前もって連絡しておいたにもかかわらず、
厚生省からは何も教えてもらうことは出来なかった。
「基金」の方も三時間に及ぶ話し合いの末にやっと、呉共済病院へ電話一本入れると約束した。
「基金」が迅速に対応したのは、私達に用紙を送った所までだけだった。

 

「どうして娘は急死したのかを知りたい」という、
純粋な気持でスタートした調査だったのに、
私達はずんずんと大きな渦に巻き込まれていくようだった。

後日、より詳細を知りたくて「カルテのコピーを下さい」と三医院に連絡したが、
「医師会に相談してからでなければ返答しかねます」

と拒否された。数日してまた電話すると、

「裁判所の指示以外には書かないようにということですから、書けません」

と三医院から返って来た。
止むを得ず、私達は証拠保全手続きを取った。
各地の親も、神戸・京都・神奈川・東京(三名)などでカルテの証拠保全をした。
自分の子供の検査結果や病状を親が知るのに、弁護士の手を借りた上で、
一〇万~二五万円ものお金を出さなければ知ることさえできないのである。
しかも、さんざん医者からの悪態にたまりかねた後に、親は止むを得ず保全するのである。

「うちで出した薬で薬害になるわけがない。名誉毀損だ。帰って下さい」(横浜市)
「何に使うんだ、警察を呼ぶぞ!」(栃木県)
「薬害になるような薬は、天地神明に誓って出していないから、投薬証明は書けない」(東京)
「あんた、金がほしいんか!」(呉市)

私達一三四名だけが、たまたま悪徳医にかかったのではない。
医者は髪振り乱して保身にやっきになる。
私達の死んだ子の事など、彼らにはどうでもいいのだ。

*

やっとの思いで申請したにもかかわらず、
半年後に「基金」から返って来た通知書には、次の一文があるだけだった。

「発現した症状と投与された医薬品との一般的因果関係が現段階では解明されていないところから、
発現した症状が投与された医薬品によるものであると判定することができない」
(一九八三年三月二九日付)

不服がある時は、この決定を知って二ヵ月以内に厚生大臣に対し、審査の申し立てが出来る。
私達はすぐに申し立てをしたが、いまだ文書回答はない。
ただ電話が一本入った。

「一〇年後でも二〇年後でも、
因果関係が明確になった時点で再申請して下されば、その時に支給しましょう」といった。

医薬品副作用被害救済基金は加害者救済制度[P.70-71]

「基金」が全く機能していない点について、一九八三年三月五日、
衆院社会労働委員会で、菅直人議員(社民連)が私達の場合を紹介しながら質問をした。

菅直人議員「被疑薬という欄を医師が書くようになっているが、
医師は一生懸命逃げるわけです。
このように入口のない状態が、請求件数を低くしているのではないですか。
又、医療機関は、薬の副作用で患者が亡くなっても、代位部分患者に伝えていないのです」

林厚生大臣「被害者救済基金ができた制度の趣旨のにかんがみまして、
一遍検討させていただきたい、こう考えております」(社労委会議録第三昭和五八年三月三日)

しかし、あれから二年半を過ぎた今、「基金」について何も検討結果は出ていない。
次の表「基金の運営状況」がいかに「基金」が有効利用されていないかを示すものである。
毎年八〇〇件を軽く越す副作用禍が報告されているからこそ、
全国二万社の医薬品メーカーや調剤薬局から六八億円もの拠出金を徴収しているのではないか。

それなのに五年間での給付金額が二億七〇〇〇万円に対し、
事務費・人件費が九億円を越すという事実が、
被害者のための「基金」ではない事を、またもや証明している。

厚生省「それじゃあ、救済制度はいらないというんですか。
私の方から逆にみなさんに聞きたいですね」

クロロキン被害者「そうだ。いらないのだ。
メーカーのための救済制度だからいらないといっているんだ」

人生そのものを破壊された人々の言葉に、心を澄ましてみない限り、
建て前で作られた「基金」の虚像は見抜けない。
申請件数がほとんどないに等しいのは、「基金」の構造的欠陥を示すものであり、
被害者を救う気のないことを示す。

「基金の運営状況」
請求件数 支給件数 支給金額 拠出金
1980
(昭55)
20 8 120万5000(円) 37億6400万(円)
(S54億9200万円)
1981
(昭56)
585万1000 12億9300万
1982
(昭57)
5928万7000 4億8500万
1983
(昭58)
1億81万8000 5億8200万
1984
(昭59)
1億908万4000 5億9000万
合計 341 188 2億7624万5000 68億600万

活かされないライ症候群の警告[P.75-76]

「本畝さんの記事は二年も前から度々読んでいました。
でも、特異体質だったんだナーと思っていました。
まさか、うちの一人息子が、同じことになるなんて! 
三日前にライ症候群で急死したんです……」

お父さんの言葉を聞きながら、私はたまらぬ思いに追い込まれた。
寿子の後に、一人だって同じライ症候群で死んでほしくないと思えばこそ、
我慢に我慢をしてテレビ・ラジオ・新聞に出たのだった。
親が無知であったから、娘を死なせましたなど、誰がテレビにまで出てしゃべりたいだろう。
子供を救ってほしいからこそ、私達は世のさらし者になる決意をしたのに、
またしても私達と同じ誤ちを犯している。

「何とも言えませんね」としか言わない厚生省ライ症候群研究班班長[P.108-110]

寿子が亡くなって半年たった一九八二年八月二八日、
私達夫婦は、研究班班長である久留米大学小児科教授・山下文雄氏に、すでに会っていた。
厚生省からは何も教えてもらえなかった失望から、
きっと研究班なら積極的なアドバイスを与えてくれると信じ、
やっと入手した呉共済病院の診断書や、
投薬証明書・症状表など一式を送付してから、出向いた。

八月末といえでも、新幹線を降りるや否や、
強烈な日差しに汗がふき出るような日だった。
これから講演会に出かけるところだという山下ご夫妻と、彼の友人医師宅で落ち合った。
ジュウタンの敷きつめられた応接間には、真紅と黄のバラが飾られていた。
私はまず山下氏に了解を求めた。

「先生のお話の一言でも聞きもらしたくないのです。
専門的知識の乏しい私達には十分理解できないと思いますから、
お話をテープに録音させて下さい」

それから一時間、彼はライ症候群とミトコンドリア障害の講義を始めた。
グリーンのメモ用紙を取り出して、図解入りの詳細な説明である。
ミトコンドリアの変形については、もう文献を読んで知っていた私は、
たまりかねて切り出した。

「先生、寿子の件ですが、資料をごらんになってどう思われますか?」
「うーん、なんとも言えませんね」
「では、家族が順番に寝込んだことを思うと、
インフルエンザにかかっていたと考えられます。
ライ症候群の原因がアスピリンであるか否かは別として、
カゼの寿子に解熱剤を与えたのは、医学的に間違いではありませんか?」
「それも、なんとも言えません」
「カゼに効く薬はないのでしょう? 
対症療法でしかないのに、副作用のある六種類もの薬を投与したのは間違いではないですか?」
「なんとも言えません」

残りの三〇分間、彼は「悲しみの曲線」の説明をした。
「対症喪失」という一冊の本を差し出して、
「子供さんを亡くされたお母様に、私はいつもこの本をプレゼントすることにしています」

そして彼は
カーブを描き始めた。

「愛する対象を失うと、
まず怒りが急激に高まって、徐々にプラトー(平ら)となり、下降していきます。
この間、六ヵ月くらいです。今、本畝さんはこの辺ですねー」

急上昇の三分の二あたりを、彼はペンで差し示した。
プレゼントするという本の一ページ目に、彼は直筆で
「お母さまへ 八月二八日 山下文雄」とサインしたが、
私は今日まで一度も開く気にはなれないでいる。

彼の予測は残念ながらはずれた。
私の「怒りの直線」は急上昇を続けて、とうに極限の域に達してしまった。

本畝淑子が抱く近親憎悪とそこからの脱却[P.115]

“我が子の死”という決定的恐怖に打ちのめされて、
投薬証明書や診断書すら医者の所に取りに行けない親達……
いや、勇気をふりしぼって出かけても、体よく追い返されて泣き寝入りする親達……
新しい生命の誕生だけを願い、もとの幸福を取り戻すことにやっきになっている親達……
本物のライ症候群が何かさえ調べようともしない親達……。

憤懣やる方ない私の「ぼやき」に対して、パートナーは静かに語った。

「腹を立てる相手が違うよ。
同じ悲しみを持つ親に腹を立てて決裂するのを、
誰が一番待ち望んでいるかを考えなければね」

確かにそうだった。
私は気を取り直し、崩れおれそうになりながらも、
各地の親の元を一軒一軒尋ねることを止めなかった。
「どんな協力も惜しまないからね」というパートナーの言葉に支えられて、
やっと挫折を乗り越えることが出来た。

シンポジウムに誰一人出席しない厚生省ライ症候群研究班[P.120-121]

親の会主催のシンポジウム開催三週間前、私達はまたも厚生省との交渉を行なった。
大原亭議員、竹村泰子議員、菅直人議員の力添えにより、厚生省から六名出席。
親の会及び支援者の二〇名は、向かい合って座った。

本畝「ライ症候群の原因究明には、
患児の親と医師と厚生省の協力が不可欠と考えます。
共に協力する第一歩として、次の事を実行して戴きたいのです。

一 親の会が今回作成したアンケート用紙を、厚生省が把握している患者にも配布すること。
二 八月二五日と二六日に大阪で開催するシンポジウムに、
研究班のメンバー及び厚生省担当官が出席すること。
三 シンポジウムの経費についても、厚生省として何らかの助成金を出すこと。

これら三点を実現して下さいませんか」

厚生省「病院を通してでなければ、学問的な裏付けが出来ませんから、
アンケート用紙配布は困難と思われます」(薬務局企画課荒木氏)

厚生省「シンポジウムのことは、研究班のメンバーに連絡はしますが……
厚生省としては前例がないので参加できません。
従って経費についても出すことは無理だと思います」(薬務局安全課小宮氏)

このようにして、厚生省はただの一度として親達の必死の要求に応えたことはなかった。
ただ、八月二六日当日、厚生省から二人の参加があった。
これは前代未聞のことであるが、
前述議員の方々が厚生大臣にかけ合ってくれてやっと実現したのだった。
それでもとうとう、研究班の医者は一人も出席しはしなかったが……。

アスピリンを規制する気の無い厚生省[P.152-154]

ライ症候群または急性脳症とされた子供の親達が初めて結集したのは、
一九八三年(昭五八)七月四日、衆議院第一議員会館の会議室だった。
ここまで来る一年間、連絡のとれた四六家族の御両親に、共に行動することを求めた。
どうして私達の子供は、こんなにも早い一生を終えなければならなかったのか。
飲まれた薬は何だったのか。このまま泣きくれていては、
兄弟姉妹や友人の子供達までも同じライ症候群にならぬという保証はない。

第一回目の厚生省交渉には、
京都・愛知・東京・埼玉・神奈川・茨城・宮城・広島から一五人の親達が集まった。
厚生大臣への「要請書」なるものを、この時生まれて初めて書いて東京へ持参した。

国会議事堂の向いにある衆議院第一議員会館へ
綾子と黒枠の写真に収まってしまった寿子とを連れて行った。
黒い喪服姿の両親が一三人、生存児の親が二人、会議室に入って行った。
親達はこれまで、どこにも申し出の場のなかった不満を、
厚生省のお役人達と議員の前にぶっつけた。

本畝「どういう状態で子供達が急変したのか親に聞かないで何がわかるんですか」

厚生省「患者さんまで調査する必要があるかどうか検討しますが、
今はカルテを中心にやるということになっています」(薬務局企画課荒木室長)

京都の親「そのカルテがことごとく書き変えられていたんですよ。
医者はしようと思えば簡単に書き変えられるんだ」

一時間少々の第一回目厚生省折衝であったが、ほとんどの間、
お役人は無表情な沈黙のままだった。
約束の時間が来るや否や、「次の会議がありますから」とさっさと帰って行った。
私達の手渡した「要請書」には、三年以上経った今も、なんの返事も来ていない。
これ以降にも三回提出しているが、なしのつぶてである。

この日から今年(一九八五年)の七月までで、一〇回の厚生省交渉を続けた。
今後も継続していくが、これまでに幾度となく繰り返されたお役人の無責任な発言を、
録音テープから抜き出してみた。

本畝「製薬会社はいつまでも『お子様の夜の熱怖いですね。ハイ、バファリン』と宣伝しています。
メーカーに、アメリカでの現状と対策を、厚生省から伝えてほしいのです」

厚生省「メーカーは当然知っている筈ですよ。何もうちから流さなくても」
(薬務局企画課荒木室長)

製薬会社に甘い厚生省の体質には、もう言葉がない。第九回目の交渉の時である。

本畝「カゼ、社会の迷惑ね。ハイ、ベンザエース(成分はアセトアミノフェン)、
とテレビで宣伝しているが、いつまで放置しておくのですか。カゼ薬、社会の迷惑ね、と言いたい」

厚生省「カゼが伝染病である以上、伝染するという事に関しては確かに迷惑な話でして……」

本畝「カゼが伝染するのを止める薬はないでしょう? 
むしろ宣伝された薬を飲んで副作用があった場合どうするのですか」

厚生省「テレビコマーシャルの後には、使用上の注意をよく読んで下さい、
となっているから問題はないと思いますが」

ライ症候群のビラを受け取ろうとしない役人たち[P.175]

関西医療問題連絡会議及び関東薬害共闘の方々の絶大なご努力で、
一九八四年(昭五九)二月二七日、衆議院第一議員会館への結集が決定した。
東京へ出かける二日前に、私はやっと健康を回復し床を離れることが出来た。

前日二六日、東京に着くと小雪がチラチラと舞っていた。
道路の両側には降り続いた雪が積み上げられ、白い杖の方々のことが案じられた。
東大病院の会議室で、厚生大臣に提出する「要求書」の討議がされた。
宿舎に移ってからも、真夜中過ぎるまで、交渉戦術を論議し、
街頭ビラや「要求書」の印刷作業をした。
被害者が一堂に会するのは、五年ぶりのことだと聞いた。

二七日当日朝八時、厚生省前に集まった。
昨日とはうって変っての快晴だったが、ビラをまく手は氷りつくほどにかじかんだ。
自分の主張を書きつけた「ビラ」というものを、
一枚一枚手渡しながら「どうぞ読んで下さい」と頭を下げた。
お役人達はチラと一瞥しただけで、オーバーのポケットに手をつっこんで、
立派な官舎へ足早やに入っていった。
私達ライ症候群が用意した、
「明日はあなたが、あなたの家族が薬害・医療被害の犠牲者になるかもしれません」
という一〇〇〇枚のビラは、何人のお役人の胸に響いただろうか。
受け取ることさえしないお役人達の態度に、
はるばる集まった親達のガックリと肩を落としている後ろ姿に、私は胸が痛んだ。

注射直後に死亡した女子大生[P.190]

私の所には様々な医療被害者及び医療従事者から連絡が入る。

「大学二年生の女性がカゼをひいて内科に行き、二度目の受診の時注射後一五分で死亡。
何故か死亡診断書は『急性心不全』。
医者は決して『注射によるショック死』なんて書きはしない。
オレが殺した、なんていう訳がない」

説明されても薬が不要だと理解できない親たち[P.224-225_280]

私が、カゼの子供さんを連れて受診されるお母さん達に、カゼを治す薬が無いことや、
薬は全て毒であることを説明しますと、初めて受診される人のほぼ九〇%は、
まずビックリした表情になり、次いで薬がもらえないと分ると、大変不満気な表情に変ります。
とりわけ診察室の外で待っている父親には、母親からの間接的な説明となりますので、
「わざわざ来てるのになんで薬がもらえへんね」と、
母親にドナリつけている声が聞こえて来ることもしばしばです。
特に若いカップルで、初めての赤ちゃんを連れてこられた場合によく見られます。
そんな場合にはすぐ両親を診察室に呼びもどして、症状から見て薬は不要であることや、
薬の能書集を見てもらいながら、全ての薬には副作用のあることを説明することにしています。
説明には通常三〇~四〇分を要しますが、一応納得してもらって帰ってもらいます。
それでも帰りがけに、他の医院でカゼの薬をもらって帰る人もあるようです。
そういう人は二度と私の外来を訪れることはありません。

母親が子供の発熱を恐れる理由[P.251]

昭和六〇年の七月に、大阪市のある幼稚園のお母さん達に、
子供が熱を出した時に解熱剤を使う理由を尋ねてみました。
一番多かったのは熱で脳が障害されるのを防ぐためと、
熱で苦しそうにしているのを、早く取り除いてあげるためというものでした。
その他、熱でひきつけるのが恐ろしいので、熱でいろんな余病が出るのを防ぐため、
熱で体力が消耗するのを防ぐため、熱がこわい、熱があるとぐずってよく眠らないので、
熱で食欲が落ちるので、等となっていました。

感染したトカゲを低温に保つと死ぬ[P.251-252]

ある種のトカゲに細菌を注射し、その一群のトカゲは低い体温になるようにし、
他の一群は高い体温になるようにしておきますと、
低い体温に保ったトカゲはほとんど死んでしまいますが、
高い体温に保たれていたトカゲは、全部生存していたという研究があります。

筋短縮症[P.272-273]

昭和三六年以前は、注射による筋短縮症の被害はそう多くなく、
むしろめずらしい疾患のグループに入っていました。
ところが国民皆保険となった昭和三六年を境に、この注射被害が急に多くなりました。
わが国の病気の統計を見ても、
この頃から注射をしなくては治らないような病気が激増したという事実は全く見当りません。
となると医師の治療方針が急変したということになります。
注射による筋短縮症自主検診団の全国調査の結果、
被害者の七〇%は通常注射を必要としないカゼ、
感冒性下痢、発熱等に注射をされて、筋障害を起こしたものでした。

ところがカゼの治療に使われた注射薬を調べてみますと、
抗生物質では腸チフスの治療に使うクロラムフェニコールや、
スルピリンという解熱剤が群を抜いて多く使われていました。
クロラムフェニコールはチフス菌や、ヘモフィールス菌等の細菌には有効ですが、
カゼのウィルスには全く無効です。
そればかりか再生不良性貧血という、
死亡率の高い合併症を引き起こすことも、医師の常識でした。
なのにこの薬がカゼに多く使われたのは、当時の健康保険のワクチンの中では、
この薬が最も“利ざや”が多かったからなのです。
一方解熱剤が盛んに注射されたのは、直接の利益という点では僅かなものでしたが、
注射ですぐに熱が下ったという評判を作り、
患者(客)集めには欠かせないものだったからなのです。

小児のカゼの治療に注射が盛んに使われたのは、患者が必要な薬を飲まないから、
仕方なく注射をしたというような、医学的適応があったからではなく、
医学とは全く別個の、医師の収益増という目的で行なわれていたのです。

注射による身体の障害が大きくクローズアップされ、
また被害者が注射をした医師を相手どって裁判を始めたこともあり、
カゼへの注射は減りはしたものの、今もってカゼに効きもしない経口の抗生物質や、
坐薬の解熱剤が盛んに患者に渡されています。

薬を処方しない医者は患者によって追放される[P.274-276]

昭和五九年の一二月二二日付の朝日新聞の朝刊に「薬くれぬ医者かえて」という見出しで、
離島隠岐の知夫里島の診療所に着任以来、
医学的に見て不必要な投薬や注射を避けて来たため、
一二年間島の診療に当って来た前任医師に比べ投薬量が極端に少なく、
島民の不満がうっ積し、住民の追放運動が広がったために、
昭和六〇年の三月末には医師の方から身を引くというのです。

中略

大阪の北東部に寝屋川市という町があります。
そこで大変繁盛している某内科を受診されている何人かのお年寄りに、
その医療機関を受診する理由を伺いますと、
「あの先生はエライ親切で、いつも元気になるお注射
(ビタミン剤とブドー糖)をウデの静脈にしてくれはる」ということでした。
ビタミン欠乏症の症状もなく、口から食物が十分にたべられる人々に、
こんな僅かなビタミンや、ブドー糖を静脈注射しても、
医学的には何の治療的意味もありません。
単に患者を集めるための人気取りにすぎません。

解熱剤実態調査[P.279]

昭和五五年一一月二六日付の朝日新聞(大阪)に、
厚生省の調査として、子供の発熱に、
医師がどのように対応しているのかということを実態調査をした記事が出ていました。
その中で医師が解熱剤を処方する理由を調査した結果が書いてありました。
多かったのは、なんと「親のため、解熱剤を使う」という意見でした。
その他「開業医は解熱させないと患者の信頼をつなぎとめられない」、
「患者の希望」、「患者の不安感を除くため」、
「母親の不安の強い時だけ使う」などがあり、解熱剤の投薬は、
医学的な必要性があったからというのではなく、
「親のため」とか、「親の不安の強いとき」とかというように、
患者、保護者の評判をよくし、患者を集めるために使っているというのが大部分のようでした。

日本では薬の認可に審査なし[P.304-305]

薬効はメーカーが提出する医学論文だけで審査して認可できるシステムになっています。
(その医学論文はメーカーが自社内の実験で行なったものや、
学者に金を積んで作らせたチョウチン持ち論文が大半なのです)

しかも、どの論文で何を審査したのかは公開しなくても良いことになっています。

メーカーが薬を売るために、その薬が本当は有効でなくても、
また、安全でなくても表向きの書類さえ整えれば認可されるのです。

中略

アメリカではこの点、一九六二年に成立したキーホーバ・ハリス法で、
それまで安全ではあっても有効性の乏しい薬が横行していたことに歯止めをかけました。
そして、一九三八年の食品医薬品化粧品法の下で認可されていた
既存の薬の有効性の洗い直しを始めたのです。

業界の猛反対をしり目に再評価の作業は着々と進み、
一九七〇年末までに三六〇品目が無効とされ、
有効の可能性を認められたのはそれより少ない二〇〇品目だったのです。

わが国ではようやく一九七〇年に厚生省が薬効問題懇談会を発足させ、
一九六七年以前に認可された医家向医薬品四万品目の再評価を行なうことになりました。
再評価の作業は一九七一年一二月から始まり、その結果が現在も少しずつ公表されています。
しかし、ここでも今ではほとんど使われていない薬が無効とされているにすぎず、
薬害隠しを助長させているのです。

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