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書籍と雑誌の要約と解説

赤ちゃんは殺されたのか

SIDS偽装連続殺人事件

装丁
赤ちゃんは殺されたのか 赤ちゃんは殺されたのか(1998年度アメリカ探偵作家協会賞犯罪実話部門最優秀賞受賞)
リチャード・ファーストマン&ジェイミー・タラン(ニューズデイ紙記者)
実川元子(上智大学仏語学科卒)
文藝春秋(文春文庫フ-20-1)
ISBN4-16-765119-X
C0198
2002/04/10
¥1000

まったくの健康体で生まれ、正常に発育していた赤ちゃんが
突然死亡する乳幼児突然死症候群(SIDS)により、
5人ものわが子を失った夫婦がいた。
約20年ぶりに明るみに出たこの悲劇は、
やがて医学界の常識を根本から覆す大事件へ発展していく。
MWA賞犯罪実話部門最優秀賞に輝いた
衝撃のノンフィクション・サスペンス!

解説

著者のリチャード・ファーストマンとジェイミー・タランは
二人とも「ニューズデイ」紙の元記者。
医学・科学分野を得意とするタランが資料収集とまとめを担当し、
執筆はファーストマンが行なった。
二人は三百人以上にインタビューし、
二千ページ以上に及ぶ医療、裁判、警察調書などを調べあげ、
三十年以上にわたった今回の事件の全容をあますところなく書いた。
その結果、原書“The Death of Innocents”は
六百三十二ページにわたる大著となった。
全訳して四百字詰め二千二百枚はあまりにも大分であるとの判断から、
著者の了解を得て思い切って四分の一を削った。
削除部分はおもに、無呼吸セオリーが普及し
シュテインシュナイダーが医学界で大きな力をにぎっていく過程と、
SIDSに関する医学的な説明や医療・法律関係のエピソードである。
たしかに医学・社会問題として
SIDSを扱っている部分は薄くなってしまったかもしれないが、
削除したことによって、本著が本来持っている犯罪ミステリーとしての
おもしろさはより濃度が上がったのではないかと自負している。

目次
  1. ゆりかごの殺人
  2. 偽りのセオリー
  3. 裁かれるイノセント
校正

苦くも⇒奇しくも[P.411]

要約

本書は保険金殺人および代理ミュンヒハウゼン症候群の症例が収められている。
前者はスティーヴン・ヴァン・デル・スライズ、後者はワネタ・ホイトである。

■スティーブン・ヴァン・デル・スライズ家

1971年、「エホバの証人」の集会で出会う
1974年9月10日 結婚
1975年6月 第一子ヒース・ジェイソン誕生
1975年8月 スティーブンの母親が癌で死亡し実家に引っ越す
1976年5月1日 ヒース・ジェイソンに1万ドルの生命保険
1976年10月 第一子ヒース・ジェイソン死亡 1歳4ヶ月 25セント硬貨を誤飲
1976年10月08日、第1子ヒース死亡P.22
1976年10月22日、第2子ヘザー誕生P.24
父の家からブライアント通りに引っ越すP.25
1976年12月01日、第2子ヘザーに1万ドルの保険金をかけるP.25
1976年12月30日、第2子ヘザーの呼吸停止。緊急搬送で一命を取り留めるが、1週間後に再発作を起こして死亡。オノンダガ郡検死局はSIDSと診断。P.25
ジェーンの両親の勧めでメカニックビルに引っ越すP.28
1977年 シラキュース警察署フランク・バドジーレック刑事が調書に疑問を抱くが状況証拠以上のものを見つけることができず
1977年1月 第二子ヘザー 市民病院に運ばれ18時45分に死亡 SIDS
1977年10月14日、第3子ヴィッキー・リン誕生P.29
1979年2月、第3子ヴィッキー・リン死亡:サラトガ・スプリング病理学研究室がSIDSと診断。P.30
1978年10月、第3子ヴィッキー・リンに3万ドルの保険金P.32
1981年、第4子シェーン誕生P.37
1983年3月、第5子ジェニファー誕生P.37
1983年秋、地方検事局に人事異動してきたビル・フィッツパトリックが検事局に働きかけるが証拠不十分で却下P.40
1984年 調書をオノンダガ郡地方検事補佐ビル・フィッツパトリックに託す
1985年 ジョン・ブレナンがバドジーレックの後任として意志を引き継ぐ
1985年 スティーヴン・ヴァン・デル・スライズが16歳少女を妊娠させた角で警察の取調べを受ける
1985年7月4日、スティーブが36件の強姦罪で有罪判決P.42
1986年9月23日、サラトガ郡の裁判で地方検事デイヴ・ウェイトが司法取引。自白の曖昧さに懸念を持ち第3子殺人に対して謀殺25年の代わりに故殺8年4ヶ月。P.63
1991年6月、地方主席検事に指名されたフィッツパトリックが、ピーター・タイナンを主任捜査官に任命する。P.100
1992年2月、フィッツパトリックがティオガ郡地方検事のボブ・シンプソンに連絡を取る。P.108
1993年7月、ロバート・コートライトが上級捜査官としてオウィーゴ警察署に着任する。P.115

スティーブには保険金詐欺の前歴があった。P.34
死亡現場に立ち会ったハーヴェイ・ラバールが地方主席検事に働きかけるが
証拠不十分で門前払いを受ける。P.34
スライズ家を訪ねて自白させようとしたが引っ越した後だった。P.36
その後スティーブがメカニックビルでの生活に飽きたと言い出してオクラホマ州へ。P.37
検事は第3子ヴィッキー・リンの遺体を掘り返して窒息の症状を見い出す。P.50

地方検事局法律調査部門のベス・ヴァン・ドーレンを担当に加えたフィッツパトリックは、P.53
調査過程でリンダ・ノートン(ダラスの法病理学者/SIDS研究歴12年)の論文
「児童虐待――児童虐待と乳幼児突然死症候群」『医療研究――法病理学シンポジウム』
(1983年6月)を目にする。P.54-56
これがきっかけでリンダ・ノートンを裁判の証人として招く。P.68
裁判の結果はスティーブの敗訴。第2子の謀殺罪で実刑判決25年が下る。P.89

裁判後、リンダ・ノートンの口からシュタインシュテイダーの無呼吸説はデタラメだと指摘される。
モデルとなった5人の赤子は全員母親によって殺害されたとも。P.68
これを重く見たフィッツパトリックはその母親の身元を突き止め告訴に乗り出すが、
管轄が違うためボブ・シンプソンに事情を説明して依頼する。

■ワネタ・ホイト

1964年1月11日、ワネタ・エセル・ニクソンとティモシー・アヴェリー・ホイトが結婚。P.183
1965年1月26日、第1子エリック死亡:先天性心臓疾患P.190-192
1966年5月31日、第2子ジミー誕生P.198
1968年7月19日、第3子ジュリー・モリー誕生P.202
1968年9月5日、第3子ジュリー・モリー死亡:ライスシリアルを喉に詰まらせるP.203
1968年9月26日、第2子ジミー死亡P.206
1969年春、ワネタが4回目の妊娠をするも流産P.256
1970年3月18日、第4子モリー・ホイト誕生P.259
モリーの担当医ペリーがシュテインシュナイダーを紹介するP.261
1970年6月5日、第4子モリー死亡:間質性肺炎P.295
1971年5月9日、第5子ノア誕生P.304
1971年7月27日、第5子ノア死亡P.331
1975年、無呼吸セオリーが一般誌で紹介され始めるP.386

フィッツパトリックからワネタ・ホイトの件を依頼されたシンプソンは、
まずシラキュースの検視官エリック・ミッチェルに協力要請し、P.114
次に法病理学の全米第一人者ジャニス・オブホーヴェンに論文の分析依頼をした。P.124

裁判ではワネタ・ホイトが自白を翻して無実を訴えたが有罪判決。
陪審員は謀殺(計画的な殺人)ではなく故殺(発作的な殺人)と判断した。

代理型ミュンヒハウゼン症候群を目撃した経験のあるジョン・F・ヒック医師は、
シュテインシュナイダー論文の誤りを見抜いていたが、
当時「子供の死の責任を親に負わせない」とするキャンペーンが全米で巻き起こっていたため、
ジョン・F・ヒック医師の卓見は忘れ去られた。P.372

ティム・ホイトの父親はアル中で家族の鼻つまみ者だった。P.177
ワネタ・ニクソンの父親は子どもに無関心であり、P.181母親は子供を邪険に扱かった。P.182
結婚後、ティムの父親は首吊り自殺をしている。P.186
親族はワネタが我が子を殺したと思っていた。P.216-217

内容

次々と実子に手をかけた保険金連続殺人犯スティーブ・ヴァン・デル・スライズの供述[P.46-47]

ヘザーが死んだ夜の状況から彼は話しはじめた。
「おれがヘザーの様子を見にいって、呼吸が苦しそうだと気づいたんだ。
だんだんひどくなっていくみたいに思えた。
最初は迷っていたんだ。
そのうちにこの子は死ぬんだという気持ちが強くなっていった。
おれができることはもう何もなくて、死ぬべきなんだと思った。
ヘザーを腕に抱き上げて、顔を下にしてベビーベッドに寝かせた。
顔を何か白いものの上に押しつけたと思うのだが、
それが何だったか思い出せない。
枕だったのか、ベッドのへりだったのか。
ニ、三分見ていた。
ヘザーは呼吸ができないみたいな音を出した。
そのうちに声も出さなくなって、死んだとわかった。
それからおれは風呂場にいって、シャワーを浴びた」。
ほかにいくつかこまかいことをつけ加えたあとに、彼は言った。
「あの子は死ぬべきだと感じたんだよ。
あの子を救うためにおれができることは何もないとわかったんだ」

それからブレナンが、三番目の子どもと二人きりで家にいたときのことを尋ねた。
「ジェ-ンが金切り声をあげて泣き出したんだ。
具合が悪いのか見にいったら、
ヴィッキーはベビーベッドの中で立ち上がってキーキーと叫んでいた。
抱き上げて化粧台の上に寝かせてみたんだが、まだ泣きやまない。
だから手でヴィッキーの口をふさいで、
静かにさせようとして一分間ほどそのまま押さえていた。
それから抱き上げても泣きやまなかったから、あの子は死ぬとわかったんだ。
それで頭をおれの肩のほうに押しつけて、鼻と口を肩でふさいだ。
泣きやんでほしかっただけだよ。
そのままの姿勢で五分間ほどいて、泣きやむのを待った。
そしたらぐったりとしたのを感じた……
ヴィッキーを抱きなおして、顔を下にしてベビーベッドに寝かせて、
ヘザーのときと同じように枕に顔を埋めるように押さえつけた。
しばらくヴィッキーを見つめながら考えた。
こうなってもしかたなかったんだ。
どっちみちこの子は死ぬはずだったんだから。
それで寝室にいってベッドに横たわってジェーンが帰ってくるのを待った」。
そこまで話してから彼は言い足した。
「たしかにヘザーとヴィッキーの二人の娘たちを殺したことは認める。
でもそれは計画的だったわけではない。
金ほしさでやったんではないんだ。
二人を殺したのは、もっとおれのことをかまってほしかったから。
つまり、妻のジェーンに、おれのことをもっと愛してほしかったからだ……」

リンダ・ノートン(ダラスの法病理学者/SIDS研究歴12年)の論文「児童虐待――児童虐待と乳幼児突然死症候群」『医療研究――法病理学シンポジウム』(1983年6月)[P.55]

よほど衰弱していないかぎり、
成人を窒息死させようとすれば必ず抵抗にあってなんらかの傷害が残るが、
赤ん坊の場合はちがう。
成人に比べて身体が小さいために、
目に見える傷害が残るほどの抵抗が見られることはない。
それ以上に、人間とサルの赤ん坊を研究したところ、
覚醒時に気道をふさいでもなんの反応も見られないことがよくある。
ふさいだものを取り除いたあとでさえもときには無呼吸状態がつづくことがあり、
救命のためには積極的な蘇生を施す必要がある。
睡眠時には気道をふさいでも、
それによって睡眠がさまたげられることさえめったにない。

裁判ビジネス[P.59]

裁判ビジネスでは、
節操なく都合のいい証言ばかりする専門家たちを、「娼婦」と呼んでいた。
「頼めば太陽は西から昇るとだって証言して、
裁判長が確信を得る手助けをする仕事をするやつら」
というのがフィッツパトリックの見方だ。

すべての赤子の死因がSIDSにされる[P.77]

「多くの人たちは子どもの死因をすべてSIDSとします。
赤ん坊が死んだときに、詳しい調査をするべきではないとされているのです。
わざわざていねいな解剖をする必要もないし、
警察や裁判所を納得させることができる死亡診断書が書けたらそれでよしとされます」

ニアミスSIDSは代理型ミュンヒハウゼン症候群である[P.79-80]

「あなたはニアミスSIDSの存在を認めていますか?」。
フィッツパトリックが尋ねた。

「何事も起こりえないと断言することはできないと思います。
しかし自分の子どもに無呼吸症状をわざと引き起こして、
病院に駆けつけ治療を受けさせて、
病気の子どもを持つという幸運にさずかりたい
と願う精神的な病気を持っている親もいるのです。
私の意見では、たぶんニアミスSIDSとみなされているほとんどのケースは、
親によって故意に引き起こされた無呼吸症状でしょう」。
代理型ミュンヒハウゼン症候群についてふれることなしに、
ノートンはわが子の苦痛――死には至らしめない程度――
を利用して周囲の注目を集めたいという人間がいて、
蘇生が必要なくらい子どもの呼吸を止めてしまうこともできるのだと説明した。

シュテインシュナイダー[P.96-98]

はじめて論文を読んだのは一九七四年で、
法病理学者として働きはじめてすぐのことだった。
それから十年間に、シュテインシュナイダーの無呼吸セオリーが
世界中にSIDSの定説として広まっていくのを見てきた。
セオリーの影響力はそれ以外の研究や治療法を許さない勢いで、
彼女の専門分野にも及んだ。
「ゆりかごの死」はそれまでも窒息死と区別がつきにくかったし、
無呼吸がSIDSを引き起こすというセオリーの前提にあるのは、
呼吸が突然止まれば死にいたることがあるという事実である。
このセオリーのために、
SIDSと窒息死との間の境界線はますますあいまいになった。
セオリーによって、嬰児殺人が巧妙に隠蔽されることも考えられる。
それ以上にシュテインシュナイダーの論文によって、
多くの人たちは一つの家庭で何人ものSIDSが起こりうるという説を信じ、
H夫人ばかりでなく、ほかの家庭にも起きているかもしれない
子どもの連続殺人を合法化してしまった。
一つの学説が、殺人のアリバイになってしまったわけだ。
ノートンは、SIDSと診断されたおかげで殺人罪をまぬかれた親は、
一般に考えられている以上に存在していると信じている。

彼女はH家のケースを会議などで取り上げたことがあるが、
多くの人が自分と同じ見方をするわけではないことにすぐに気づいた。
七〇~八〇年代にかけて、医療や法律現場で
児童への肉体的虐待への認識がしだいに高まっていった流れと矛盾するが、
親が子どもを殺し、それをSIDSのせいにするなどという意見は、
医療や司法の現場では受け入れられなかった。
そんな意見など聞きたくもない、と専門家たちは思っていた。
わが子が突然死した母親たちに責任をかぶせる時代が長くつづき――
「魔女狩りの時代よ」とノートンは言う――
七〇年代に入ってようやく別の見方が出てきて啓蒙がすすんだところだった。
シュテインシュナイダーのセオリーは、
子どもが死んでも親を責めないという
七〇年代に出てきた考え方を利用しただけではなく、
積極的にその風潮を広めるのに大きな役割をはたした、とノートンは考えた。

SIDSの原因を無呼吸とするセオリーは、
七〇年代から八〇年代のはじめにかけて、
世界中の医学界において圧倒的な影響力を持っていた。
「七〇年ごろの小児科の教科書を読むと、
SIDSの原因についてそれこそ諸説入り乱れていたんだけれど、
無呼吸説が出てくると一気に広く受け入れられて議論はストップしてしまった。
みんなシュテインシュナイダーの論文を引用したわ。
でも平均的な小児科医は、
その説が導き出されたオリジナルの論文を知らないか、
知っていたとしても批判的に読もうとしなかった。
教科書に書かれているというだけで、単純にそれを受け入れた。
ほとんどの人たちはそのセオリーを黙認していたわ。
児童虐待をレクチャーするときにきまってこの話を取り上げるんだけれど、
そのうち反論されるたびに私は
『その論文に実際自分で目を通してみましたか?』と訊くようにしたわ。
誰一人論文を読んでいないし、無呼吸説を導き出した研究対象者が、
実際には殺人の犠牲者かもしれないなど考えてもみていなかった。
いかにあやまったSIDSの概念が
アメリカ中に広まっているかを説いて聞かそうとしても、
宇宙人を見るみたいな目で見られるのが落ち。
この説を信じる小児科医が増えるにつれて、事態はどんどん悪くなった。
人って数が多いほうにつくものだからね。人間の性ってもんでしょう」

人間の性はともかく、犯罪を裁く正義は別問題だ。
フィッツパトリックはもし七〇年代に戻れたとしたら、
わが子を何人も殺した母親を突き止めたいと思った。
自分がやりたいと思っているのは、
まさにそれなんだとノートンにはっきりと伝えた。
ノートンも彼の意見に賛成したが、
彼女とて黙って見すごしてきたわけではない。
のちに彼女は語った。
「私も検察官に何度もこの話をしたのよ。みんなこう言ったわ。
『なんてことだ! 恐ろしい事件じゃないか。何か手を打とう』。
でもいつだって彼らはほかに抱えている事件があって、
この件は後まわしにされてしまうの。
長く関心を持ちつづけてはくれないのよ。
知り合いの地方検事たちに論文を送って、
どういう反応を見せるかを探ったこともあったけれど、
彼らは読みもしなかったみたい。
だからフィッツパトリックが実際に読んでくれて
ものすごくラッキーだと思ったわ。
相当に憤慨していたみたいだし」

何が何でも夫の気を引こうとするワネタ・ホイト[P.183-186_194-195_281_311]

彼女はティムにまとわりついた。
ときには嫉妬をむきだしにした。
ティムの関心が誰かほかの人に、とくに女の子に向くとすねた。
たとえティムにとっては何の意図もない自然な関心で、
相手が昔から家族ぐるみでつきあっている女性や義理の姉でも、機嫌をそこねた。

中略

同じ宿舎で暮らしていた人たちに、新婚夫婦の様子を尋ねると、
だいぶあとになってもこんな答えが返ってきた。
「ラブバードだよ。腰のところでつながっているみたいだ」。
歩くときにはいつも手をつなぎ、ティムが座るとネタがその膝に乗った。
しばらくは微笑ましく見ていたティムの家族は、
ネタをよく知るようになると、
精神的にどこかおかしいのではないかと思いはじめた。
どこがどう変なのかうまく指摘できなかったが、
あえて人とちがっているところを探すとすると、
周囲の注目を集めることを異様なほど必要としているように思える。
その様子ははたから見るとずいぶんこっけいに映った。
彼女は内気で、まわりに人がいると居心地が悪そうなのだ。
ニクソン家よりもはるかにひんぱんに家族で集まる機会の多い
ホイト家の人たちの中にいると、一人浮いてしまっている。
それなのに、注目の的にならないと気が済まないというのがおかしい。

ある日、ティムは兄弟のドンとチャックと一緒に、
三十八号線とブラウン通りの交差点にある、
義兄のウェルドン・ウェイトの農場に手伝いにいくことになった。
ウェルドンは一番上の姉マリオンと結婚しており、
地域でもっとも成功をおさめている酪農場主だ。
ネタはティムについてきた。
そこで彼は困った立場に追いこまれた。
ネタが自分に関心を寄せるのは悪い気分ではなかったが、
鎖につながれたように見られるのはたまらない。
ティムにも一人前の労働者としての誇りがあった。

「干し草を束ねよう」。
ウェルドンがホイト家の兄弟たちに言って、納屋のほうに歩き出した。
三人の兄弟たちもあとに従った。
「いやよ、ティム」。
ワネタが哀願した。「ここに私と一緒にいて」
「いまはだめだよ」。
ティムはほかの人たちと一緒に納屋のほうへ行こうとした。
「働きに来たんだ。またあとでね」
「ティム」。ワネタが必死に頼んだ。
彼は歩みを止めなかった。
「ティム、私、気が遠くなりそう」。
彼女が叫んだ。四人の男たちは振り返って彼女を見た。
ワネタは大げさな身ぶりで泥の中に倒れた。

ティムはどうすべきか決意しなくてはならなかった。
しばらく立ち止まったまま彼女を見て、それからほかの男たちを見た。
「放っておけ」。ウェルドンが言った。
「一分後には起き上がるから」

ティムは強い怒りを吐き出そうとするように深呼吸し、
ティーンエイジの花嫁に背を向けて納屋に行った。
結局ネタは一人で起き上がって帰った。

*

ネタはつねに身体のどこかに痛みがあり、
習慣のように苦痛を訴えてはあちこちの医者にかかっていた。
だが、どの医者もどこにも悪いところが見つけられなかった。
自分の身体の不調を、
家族が集まってトランプゲームを楽しんでいる席だろうが、
平気で打ち明けた。
「誰かが風邪をひいたといえば、自分はインフルエンザにかかったと言う。
膝が痛むと言うと、自分は膝も肘も首も痛むと訴える」
と親戚の一人がそのころを思い出して言う。
ネタは持っていた医学辞典を熟読していた。
家族が集まると、ティムの姉のアンとジャネットとマリオンは、
ネタが際限なく訴える身体の不調を
ただ口をあんぐりあけたまま聞かされるのにうんざりし、
少しからかってやろうと決めた。
でたらめの病気をでっちあげて、凝った病名をつけた。
ネタに聞こえるように、
マリオンはその症状がどんなにつらいかを大げさに述べたて、
ややこしい病名のその病気がどんなにやっかいかをこぼした。
一週間後に思っていたとおり、
ネタがそのでたらめな病名の病気にかかったという噂が家族中に知れわたった。
あまりにもうまくいきすぎたことに味をしめた女性たちは、
ときどき同じいたずらをして遊んだ。
ネタがかかった最新の病気の情報がティムからもたらされることもあった。
チャックの目から見ると、弟は妻の話を心の底から信じており、
彼女の欲求をかなえるべく献身的に尽くしていた。
労働組合に入ったおかげで医療費がカヴァーされるのは結構なことだと、
チャックは考えた。

ティムの父親が一族の鼻つまみものだったとすると、
ティムの妻はきわめつけの変人だった。
ネタは対人関係においてときおり奇妙なふるまいを見せ、
周囲の人々は彼女との接し方に困惑した。
性格がときと場合によってころころと変わり――
陽気かと思えば冷淡、思いやり深いかと思うと自己中心的――
どの性格分類にもあてはまらなかった。
なんの邪気もない指摘にネタは傷つき、
指摘した人が傷つけたとはまったく気づかないまま何日も何週間もたってから、
突然ネタは手厳しく言い返した。
そこではじめて相手は事態を理解する。
「あの人とつきあうなら、言葉を慎重に選ばなくてはだめなの」。
ロレッタ・ホイトは認めた。
「だからだんだん距離を置くようになった。仕返しされたくないから」

ネタには辛辣で意固地なところがあり、
ふだんの内気な殻を破ってそれが表に出てくることがあった。
彼女をふだんからよく知っている人たちの中には、
几帳面で神経質だと思う人がいる一方で、
感情のコントロールに問題があると考える人もいた。
ロレッタはその両面を見ていた。
何年ものち、仕事中のティムから何度も電話がかかってきたことを思い出す。
ネタが自殺したがっていると弟は言った。
ちょっと見に行ってやってくれないか。
ロレッタがトレイラーに行くと、ネタはいつも上機嫌だった。
一度など二人でトランプゲームをして笑って終わったこともある。
別のときには気持ちよくドライブに出かけた。
ネタと会うと、ロレッタは落ち着かない気分になるよりも当惑した。
「いったい私は何をしにここにやってきたのかしら?」。
ティムの電話でネタの様子を見にいくたびに自問した。
何年かたってから、ネタはロレッタの手を取って、
私の命を救ってくれてありがとうと感謝した。
ロレッタはティムに、
ぜひともネタを精神科に見せるべきだと長年主張しつづけた。

*

「母親がどうしたのかね?」シュテインシュナイダーは訊いた。

それがですね、とテルマは切り出した。
面会のときに赤ん坊と一緒にいたがらないんです。
一度たりと抱きしめてやったりしません。
看護婦がうながさないかぎり自分からはぜったいに授乳しようとしません。
ホイト夫人は前に子どもを亡くしているために、
たぶんモリーに近づくのが恐いのだとこれまでは思っていません。
でもそれ以上の何かがあると思います。

テルマはシュテインシュナイダーが
自分の言ったことをちゃんと把握していないのがわかった。
そこで具体的に例をあげて話すことにした。
「赤ん坊を抱くときには、ふつうはこうやって抱き寄せるものです」。
胸の前で赤ん坊を抱きかかえている姿勢をとった。
「でもあの人はちがいます。腕を伸ばして、非常に不自然に抱くんです。
アル、それはとても奇妙なことなんですよ」。
ガラスの窓越しに、
ナース・ステーションに座っている間テルマはすべてに目を配っていた。
何回となく気づいたのが、
ホイト夫人の関心が赤ん坊ではなく夫に集中していることだ。
「今日は父親が赤ちゃんを抱っこしていると、
彼女がやってきて赤ん坊を取り上げて自分が夫の膝の上に座ったんです。
それで赤ん坊をいつものように離して抱いているんですよ。
正常な母親がとる行動ではありません。
自分に注意を惹きつけたい気持ちがありありと出ているんです」

*

ジュリーはワネタの一挙手一投足が神経にさわった。
「あの人は入ってくると赤ん坊を見て腰をかけます。
キスをしないんです。抱き上げもしません。
私に赤ん坊の状態を訊いたりもしないんです。
でも私はノアの様子を報告しました。
そして抱き上げて彼女の膝の上に置いて抱かせるんです。
ご主人の椅子を持ってきます。
あの人は赤ちゃんを抱いていますけれど、抱きたくないことが見え見えでした。
その抱き方がね、いやいやなんですよ。
落とさないかとひやひやしました。
両腕でしっかり抱かないんです。
片腕で抱えて、もう一方の腕は……どうしていたか忘れましたけど。
だから赤ちゃんを取り上げて、今度は夫の膝の上に置きました。
そしたらそれがあの人には一秒だってがまんならないんです。
すぐに隣に椅子を持ってきて、夫の脚をなでさするんですよ。
赤ちゃんに嫉妬していましたね、それはまあ私の印象ですけれど。
夫のほうは、妻よりはるかに愛情深く赤ちゃんに接していました。
それを見てあの人は怒っていました。
顔に怒りがありありと浮かんでいます。
だからまた私が赤ちゃんを抱き上げてベッドに寝かします。
そしたらあの人のご機嫌はなおるんです」

SIDS原因論[P.222-224]

添い寝――イギリスとイタリアでは一六〇〇年には
添い寝で赤ん坊の上におおいかぶさることも窒息とみなしていた――
は何世紀もの間、突然死の一番の死因と疑われていた。
フィレンツェの職人は、
木材と鉄でアルクッチオ(小さなアーチ型のおおい)と呼ばれる装置を作り、
ベッドの上に置いて毛布や人が赤ん坊の上におおいかぶさらないように工夫した。
「フィレンツェの看護婦たちは誰もがその装置の下に
赤ん坊を寝かせるように指導されており、怠れば破門が待っていた」
と十八世紀にこの装置を英国に持ちこむ際の広告に書かれてある。
だがアルクッチオをもってしても、
赤ん坊の突然死は防げないことは広告にはうたわれていなかった。

どの時代においても、疑いは母親に向けられた。
だが、確固とした法的または医学的な根拠に基づいて、
子どもを亡くした母親が責められ罰せられたわけではない。
母親に責任を負わせるかどうかは、
その時代の社会と政治が大きく影響していた。
紀元前一世紀、
不注意から子どもを窒息させたと考えられたエジプトの母親たちは、
亡くなった赤ん坊を三日三晩抱きつづけることを強制された。
一方で歴史を振り返れば、貧困から狂気によるものまで、
親による子ども殺しの例は枚挙にいとまがないほどある。
また嬰児殺人と突然死とは、一見したところ見分けがつかなかったために、
乳児の原因不明の死亡にはつねに殺人の疑いがつきまとった。
事故によるものと意図的な殺人とを区別するための
道徳的な必要性があったために、
微妙な死因についての医師たちの研究は十七世紀からはじまっていた。

突然死は解剖学の発展とともに医学的な問題として取り上げられるようになり、
十八世紀後半にはフランスの医学校ではじめてこの問題が取り上げられている。
医師たちは、添い寝による窒息死ではないか
と考えられていた赤ん坊たちの遺体から、
何か死因のヒントが見つからないかと調べはじめた。
初期の解剖で、
医師たちは謎の死をとげた赤ん坊たちの胸腺が大きいことに注目した。
過剰に大きいその組織が、どこかで心肺機能を阻害するのではないか。
気道か、もしかしたら脳に酸素を運ぶための血管をふさいだのではないと考えた。
胸腺が原因だとする仮説は、突然死を説明する最初のセオリーであると同時に、
証明されることなく広く受け入れられた説でもあった。
「胸腺リンパ体質」として知られるようになったこの説は、
二十世紀に入るまで乳児の突然死に一般的にくだされる診断だった。
胸腺が免疫システムの成熟に重要な役割をはたすことが
理解されていなかった時代に、この診断は乱発された。
一九三〇年代に突然死を防ぐために
赤ん坊の胸腺に放射線を照射することが流行った。
それは赤ん坊の生命を救わなかったばかりか、
成長した数十年後に甲状腺近くに癌を作る結果を生んだ。

一九四〇年代までに胸腺犯人説はやっと信憑性を失い、
死亡原因の欄に「不明」「説明不能」と書かれるようになってきた。
「ゆりかごの死」は近代医学でも解明のできない大きな謎として
浮かび上がってきたのである。

医師たちが考え出すセオリーはたくさんあった。
牛乳に対するアレルギー科ビン体質によるショック死ではないか。
未消化のものが吐き出されたときに喉に詰まったのではないか。
ある病理学者は、血漿中の抗体に富むプロテインである
ガンマ・グロブリンが低レベルであることを指摘した。
一方で電解質の異常が原因とする病理学者もいた。
深刻な呼吸不全がつぎに広く唱えられた説だ。
だが、どのセオリーはすべて当て推量にすぎず、
実験も行なわれなかったし、医学雑誌でたまに言及される以外、
幅広く議論されることはなかった。

SIDS政治運動[P.224-226]

フレッド・ドーアはシアトル出身のワシントン州古参の上院議員で、
妻モリーとの間に生まれた娘のクリスティーン・モリーを、
一九六一年九月八日に亡くした。
四番目のこの子どもが生後三ヵ月で死んだとき、
死因は「間質性肺炎」だと告げられた。
検死官は夫妻に、こういうふうに突然死する赤ん坊を
自分は一年間に二十人以上見ていると話した――
健康状態が完全に良好で、
実際には肺炎など起こしていないのに死んでしまう赤ん坊だ。
そして夫妻に、あなたたちの赤ちゃんも肺炎を起こしていなかったと認めた。
書かれた死因は、医学的には説明のつかない死であると書くより、
簡単だからにすぎない。
夫妻はその話に面食らって動揺した。
ただこういう形で子どもを亡くす親は自分たちだけではないと知った。
検死官自身も「ゆりかごの死」でわが子を亡くしていた。
わが子の死をきっかけにドーア夫妻は
乳幼児の突然死の原因を突きとめるための政治運動を展開した。

ドーア夫妻は運動を推進し、
一九六三年三月十一日、五番目の子どもが生まれる前日に、
三歳以下の「一見健康状態が良好」で突然死した
すべての子どもに解剖を義務づける法律が、
アメリカではじめて成立したのを見届けた。
ドーア議員はワシントン大学医学部を動かして、
突然死した乳幼児を検死して、
その結果を研究するプログラムを設けるために二万ドルの助成金を与えた。
大学の中には政治家が学内のプログラムに
口出しすることにいらだつ声もあったが、助成金は返還されなかった。
議案が提出される前ではあったが、
メアリー・ドーアはためらわずに医学部に圧力をかけ、
SIDSの謎に惹きつけられた二人の研究者を引き抜かせた。
「ゆりかごの死」の犠牲者の遺体が医学部の病理学研究室にやってくると、
心臓学者のウォレン・ガンセロスと
疫病学専門のドナルド・ピーターソンは解剖結果から
なんらかのヒントを見いだそうとした。

ドーア夫妻は医学部の小児科部長であるロバート・オルドリッチ医師を
自分たちの運動の賛同者として引き入れた。
先見の明があったこの人選のおかげで、運動は大きく進展する。
一九六三年のはじめにケネディ大統領はオルドリッチ医師を、
国立衛生研究所の付属機関として新設した、
子どもの健康問題を扱う研究所の初代所長に任命した。
ケネディの妹のローズマリーが重度心身障害を持っていたために、
主としてその症状を研究するために設立したのが、
国立小児保健発達研究所(略してNICHD)である。
だがオルドリッチは、メリーランド州ベセスダに作られた
NICHDで「ゆりかごの死」を研究しようと考えていた。
自分と同じくシアトルで小児科医をしていたジェラルド・ラヴェックを、
研究所の副所長に任命して片腕とした。
NICHD所長としてのオルドリッチの最初の公的活動は、
ワシントン大学でのSIDSに関する最初の国際学会の開催である。
一組の夫婦の個人的な悲しみから実を結んだこの学会は、
のちにSIDS解明のための研究活動を誕生させたと言われた。

一九六三年九月、二日間にわたってアメリカから五人、
英国から三人の専門家と、病理学者、小児科医、
保健衛生のプロなど三十人が集まって、
「ゆりかごの死」についてはじめての意見交換が行なわれた。
会場となったシアトルでは、
SIDSについてわかっていることと
わかっていないことが総合的に話し合われた。
わかっていないことのほうがはるかに多かったのは言うまでもない。

傷の見えない赤ちゃんの事故死[P.227-228]

クリーヴランドの副主任検死官であるレスター・アンデルソン医師は
集まった人たちに、死因の説明がつかない赤ん坊の遺体を、
一年間に百人は解剖すると話した。

中略

「一見したところ、傷一つないように見える子どもが、
解剖すると致命的な重症を負っているかもしれない可能性は捨て切れません」。
そう言って、子どもの頭皮をはいだスライドを見せた。
頭骨に一筋のひびが入っていたが、
それはていねいに解剖しなくては気づかれないほどの細さだ。
「この子が検死局に遺体で運びこまれたとき聞かされたのは、
前の晩には元気だったのに、翌朝ベビーベッドの中で息絶えていた、
というよくある話でした」。
のちに父親は飲みすぎて帰ってきて息子と遊ぶうちに、
うっかりして落としてしまったと告白した。

児童虐待症候群[P.228]

この言葉はコロラド大学
(中心メンバーの一人、C・ヘンリー・ケンプ医師も参加していた)
の医師たちで結成された研究チームが、一年前から使いはじめた言葉だ。
研究チームは一九六二年七月号の『アメリカ医学学会ジャーナル』に
同名のタイトルで画期的な論文を掲載していた。

死因が見当たらない突然死は肺炎と診断される[P.230-231]

SIDS研究において先端的研究をしている
シアトルの小児整形外科病院と二人の医師――
小児科医アブラハム・バーグマンと
小児病理学者J・ブルース・ベックウィズ――に、
SIDS研究のために州の助成金と
個人的な寄付が寄せられるようになっていた。

中略

ベックウィズが意識的にSIDSにかかわりはじめたのは、
ロサンゼルスの小児病院でレジデントとして勤めていたときだ。
二人の子どもの父親になっていたベックウィズは、
夜間と週末をロサンゼルスの郡の検死局で
アルバイトをして生活費を稼いでいた。
そのとき一週間にニ、三人の赤ん坊の死亡報告書に
間質性肺炎と書いていることに気づいた。
検死官アシスタントの一人の若手法病理学者で、
彼に犯罪による遺体の解剖方法を教えてくれたトーマス・ノグチが、
乳児の突然死の死亡報告書にはそう書けと命じたのだ。
「こういう赤ん坊は一人経験したら、全部わかる。みんな同じだから」。
ノグチはのちに著名な検死官になった。
ベックウィズは奇妙に思って記録をめくって調べてみた。
検死局は一年間に三百人の赤ん坊の遺体を解剖しており、
ほかに適当な死因が見あたらない全員の死亡報告書に、肺炎と記していた。
ほとんど毎日、ロサンゼルス郡のどこかで赤ん坊が謎の死をとげており、
ほかの病名がつかないと肺炎の診断がくだされる。
死因については、ウィルスによるなんらかの伝染病ではないかと
ほのめかしているだけで終わっている。
ベックウィズが解剖をしているときに気づいたことは、
こういった赤ん坊の多くに、胡椒の粒をちりばめたような点状出血が
肺組織の表面一面に広がっていることだった。
ベックウィズは赤ん坊には呼吸するときになんらかの障害があり、
深呼吸を繰り返そうとするうちに点状出血が生じたのではないかと疑った。
だが障害となるものは見つけられなかった。

SIDS会議(1969年)[P.235-236]

会議は、ワシントン州北部の人里離れた
ノース・パゲット・サウンドにある島で開かれることになり、
二十七人の病理学者、小児科医、疫病理学者がアメリカ、
カナダとヨーロッパから集められたほか、
しだいに大きな運動になっていた親たちの組織からも
何人かゲストが招待された。
メアリー・ドーアはもちろん、
一九六三年に娘を「ゆりかごの死」で亡くしたメリーランド州の夫婦
シルヴィアとサウル・ゴールドバーグも出席することになっている。

バーグマンとベクウィズが
ベリングハムの波止場に研究者や親たちを迎えたとき、
北西部の曇った空から細い雨が落ちてきていた。
軍病理学研究所の大尉と、
連邦政府の神経病コントロール・プログラムの副理事も出席している。
チェコスロバキアからやってきた小児科教授が
アイルランドのベルファストの病理学者と話し合っている。
ボルティモアの免疫化学者、シアトルの生物統計学者、
それにウィルス学者でノーベル賞受賞者のフレデリック・ロビンスもいた。
グループは小さなフェリーに乗ってオルスカ島に向かった。
島は趣のあるリゾート地で、
凝った装飾のホテル「ザ・ロザリオ」以外にはほとんど家がなかった。
乳幼児の突然死の原因を探る第二回国際会議は、単なる医学会議ではなかった。

空白

「実態を示す短く耳に響きのよい名称を考えるべきです」。
オルカス島での会議のオープニングで、
ブルース・ベックウィズはまずこの疾患の名称を決めようという提案をした。
「ほかのタイプの突然死と混同されずに十分に特徴をあらわし、
一般の人にも理解される名称が必要です」。
シアトルの医師たちが一九六三年以来使ってきた
「突然死症候群 Sudden Death Syndrome」がまず提案された。
「症候群」は進行していくという特徴を持った病気ではなく、
さまざまな症状や特性を包括的にあらわす言葉としてふさわしい。
だがベックウィズは、省略したSDSは
「米国の過激な左翼学生団体と同じである」ことに懸念を示した。
だから「乳幼児 infant」を入れてはどうか。
「私としては乳幼児突然死症候群、
略してSIDSに一票を投じたいと思います」

ほかにもいくつかの案が出され、長時間にわたって討議が重ねられた結果、
グループはベックウィズの案に同意し、
はじめて公式にSIDSの定義が案出された。

赤ちゃんの葬儀の翌日に踊りに行くワネタ[P.300-301]

モリーの葬儀の翌日、
ワネタは新しいドレスを買ってティムと一緒に踊りにいった。
翌日みんなにとても楽しかったと話した。
親戚の一人が「そういうことをするにはまだ早すぎないか」
とやんわりと注意したらこう答えた。
「悲しみの乗り越え方は人それぞれでしょ」

赤ちゃんを睨みつけるワネタ[P.318-319]

育児室に入って、部屋の一方の隅に行こうとして突然足が止まった。
ノアの母親がいた。
ベビーベッドからニメートル以上離れて、
腕を組んで夫のそばに立ち、目をぎらぎらさせてにらんでいる。
一瞬後に、ゲイルは彼女があきらかに赤ん坊をにらみつけているのに気づいた。
何か具合の悪いことが起こったのだろうか? 
赤ちゃんに何をする気かしら? 
不安になったゲイルがもう少しで
「どうかしましたか?」と声をかけようとしたところで、
ワネタは凝視をやめて、視線をゲイルのほうに向けた。

「あ……あの……こんにちは」。
ゲイルは口ごもった。
「ゲイルといいます」。
ワネタもティムもなんの返事もしなかった。
ゲイルはできるだけすばやく、そっとその場を立ち去った。

ゲイルはその出来事に動揺した。
あの目はどう考えても怒っていた――
「とても静かで、とても強い怒りでした」――
そして怒りが赤ん坊に向けられていることをゲイルは確信した。
母親が、あんなに小さく無力な存在にどうして怒るのだろうか? 
ゲイルには理解できなかった。

ワネタの自作自演レイプ[P.354-355]

ホイト夫妻は平穏な生活に落ち着いていたが、
ときたまワネタによる自作自演のメロドラマが波風を立てた――
たとえば「レイプされた」とティムに打ち明けた。
隣人の一人と中古家具を見に出かけたとき、
彼が無理やりのしかかってきたのだと言う。
ティムは警察を呼んでその隣人を逮捕させた。
だがその男は、ワネタが嘘を言っていると証言した――
ブルーム郡の母親の家に行く途中、中古家具屋に寄ったら、
ワネタが道路脇でセッ○○しようと誘ったのだと話した。
ワネタが訴訟に持ちこみたくはないと決めるまで二日間、
その男は留置所に入れられた。
事件は隣人や親戚中にあっという間に広く知れ渡った。
レイプなんて本当にあったのかと疑う声も聞こえてきた。
ワネタがあまりにもあけすけに、
たいして動揺も見せずにしゃべりまくったからである。
もっとこそこそとささやかれる噂もあった。
ある日ワネタがニューアーク・ヴァレーの自動車修理工場にやってきて、
そこのオーナーに事務所で話をしたいと言った。
一分後、男は奇妙な表情を浮かべて出てきた。
ワネタが去ったあと、彼は車の修理工たちに話した。
「おい、信じられない話だぞ」。
修理工たちは顔をあげた。
「ワネタ・ホイトがたったいま、おれに夢中で、
もっと深く知り合いたいのと迫ってきたんだ。
ありがとう、でも遠慮しておくよと言ってやったよ」

乳幼児突然死症候群国際研究会議[P.387-391]

ヘルスダイン社の援助のもと、
五十九人の世界選りすぐりのSIDS研究者たちが集まる会議が開かれた。
一九八二年六月二十七日日曜日の夜に、
ボルティモアで「乳幼児突然死症候群国際研究会議」が開幕した。
アメリカのほか十二ヵ国の専門家と、
二百五十人の科学者や保健衛生のプロが、
ハイアット・リージェンシー・ホテルに集まってきた。
これはシュテインシュナイダーのSIDS会議である。
彼は無呼吸セオリーをまるで名誉の勲章のようにまとっていた。

中略

デヴィッド・サウソールはロンドンにある心臓胸部研究所内の自分の研究室で、
三年間にわたって何千人という乳児の呼吸をポリグラフに記録していた。
公立、私立両方の英国の財団基金と政府機関からの助成金をもらい、
彼は呼吸パターンと心拍とSIDSとの関係を探る研究の指揮をとった。
その規模は、シュテインシュナイダーの研究が小規模に思えるほど大々的だった。
ロンドンの自分の研究チームと、
シェフィールドにあるロイヤル・ハラムシャー病院医療物理学部門の
グループとテームズ・ポリテクニックの研究者とともに、
サウソールは数千人にのぼる赤ん坊を調べ、
六つの角度から無呼吸を検討しようとした。
発見したことについてそれまで異常なまでに
かたくなに口をつぐんで何一つ明かさなかったサウソールは、
シュテインシュナイダーの会議を結果発表の場として選んだ。

中略

三つの一流病院が二年間にわたってこの研究にたずさわり、
彼と彼のチームは九千二百五十一人の赤ん坊の
二十四時間にわたる呼吸記録をとってきた。
聴衆の間からその驚異的な数にどよめきが起こった。
三分の一の赤ん坊は出生児の体重が平均よりも低いか未熟児で、
もっともリスクが高いと考えられるグループだ。
このグループの赤ん坊全員を追跡調査して、
実際にSIDSで亡くなった二十七人の赤ん坊の呼吸記録を調べて、
無呼吸の事実を見つけ出そうとした。
「二十七人のどの記録にも、一回の長時間無呼吸も見つかりませんでした」。
短時間の無呼吸を頻発していたのが二人だけだった。

会場は驚愕のざわめきに包まれた。
マリー・ヴァルデス – ダペーナはのちに言う。
「あのときは椅子から転げ落ちそうになったわよ」

サウソールはつづけた。
それ以上にSIDSが一家族で複数の子どもに起こった事例は一つもなかった。
SIDS犠牲者の兄弟姉妹二百四人をテストして追跡調査したが、
誰一人死んでいない。
「私たちが主として批判しているのは、
兄弟姉妹について調査した以前のデータが、
比較的少ないケースしか調査対象としてこなかった点です。
兄弟姉妹だからといってSIDSのリスクが高くなるケースは
一つもなかったはずです」。
会議場の何人かはシュテインシュナイダーの表情をうかがった。
「兄弟姉妹でSIDSが発生する確率は、五百人の乳児を調べて、
その中に一人いるかもしれないとしてきた
これまでの確率よりはるかに低いものです」

この指摘は会議のホストに向けられたものらしい。
誰もが知っているように、
シュテインシュナイダーの有名な論文は姉と弟の死をもとにして書かれている。
同一家庭の五人の兄弟姉妹が亡くなり、そのうちの二人を取りあげている。

サウソールの話はつづいた。
つぎからつぎへとケースをあげ、被験者の例を示し、スライドを見せた。
無呼吸セオリーをあらゆる角度から確かめようとしたが、
最後には同じ結論に達した。
「SIDSが無呼吸に関係しているという前提を裏づけるデータはない」

シュテインシュナイダーはサウソールがデータを発表している間、
ふつふつとわいてくる怒りをじっと抑えている表情で座っていた。
「全員の目がシュテインシュナイダーに注がれていた」
とベックウィズは思い出す。

そしてサウソールは無呼吸セオリーのもう一つの問題にふれた。
「家庭でのモニタリングは
SIDSを防止するための一つの方法だと推奨されています。
いま発表した研究で実証されたのは、
一般の人たちが原発性の無呼吸を感知するために
家庭でモニタリングするのは意味がないということです」。
モニターはSIDSを予知したりしないし、
予防にもならないと証明したということだ。
「こういうテクノロジーの開発に時間を費やすべきではありません」。
淡々と断言した。

モニターを巡る状況[P.393]

一九八二年のアメリカでは無呼吸モニターが
SIDSから子どもを救うと普遍的に信じられていた。

一九八〇年代はじめ、
アメリカでは二万人の赤ん坊が毎年モニターにつながれており、
その数は増える一方だった。
毎月千人をくだらない赤ん坊があらたにモニターにつながれる。
それが正しいことなのかどうかという
一致した見解を小児科医と研究者たちに求める声が、強くあがりはじめていた。
無呼吸は本当にSIDSと関係しているのか? 
モニターは死を防げるのか? 
食品医薬品局には、モニターにつながれていながら死んだ
数多くの赤ん坊たちの記録がファイルされており、
そのうち何件かの親は訴訟を起こしている。
モニターから出火した事故や、感電死も一件ずつ報告されていた。
四歳の子がゆるんでいたモニターのリード線を電気の差し込み口に突っこんで、
赤ん坊が感電死した事故だ。

ユード・クラングラッドの反無呼吸説[P.399]

コロンビア大学の小児心臓科医師であるユード・クロングラッドは、
モニタリングは誤った治療だと結論した。
彼の報告によれば、十二年間に六人が、
家庭でモニターをつけていたにもかかわらずSIDSで死んでいる。
犠牲者は無呼吸を頻発していたわけではなかった。
「いろいろな意味でモニターによって我々は害を与えている。
証明されたわけではないセオリーがあり、
それなのにセオリーに沿った治療方法が提唱された」
とのちにクロングラッドは言った。

ニアミスSIDS[P.400-401]

未熟児は無呼吸とSIDSのリスクが高いが、
本質的に無呼吸とSIDSの関連性はないとパネリストたちは考えた。
「未熟であるための無呼吸は、
SIDSのリスクの一要素ではないと証明されている」と書かれた。

研究結果では、SIDSで亡くなった赤ん坊で、
死ぬ前に無呼吸症状やニアミスが報告されているのは
非常に少ない割合しかいない。
ニアミスという名称は使うべきではない
というのがパネリストたちの意見だった。
しいて言えば「明白に声明を脅かす出来事」
略してALTEという言葉のほうがふさわしく、
これを「観察者を驚愕させる症状があること」と定義し、
無呼吸や顔色の変化、あきらかな筋弛緩、
窒息や吐き気などの症状がいくつか組合わさったものだとした。
だが名称をどうつけようと、この発作は非常に主観的な判断であり、
親の不安や誤診や謎を招くおそれがあるという点は変わらない。
症状の半分は吐き戻しか発作に関連しているが、
あとの半分は説明がつかない――この半分には大いに疑問がある。
「たぶんこれらの症状は『あきらかに明白な声明を脅かす出来事』
と呼ぶべきなのかもしれないが」と懐疑的な医師の一人が言った。
「もしかすると『親がわが子の声明を脅かす出来事』かもしれない」。
別の一人がつけ加えた。
どちらのケースでもこういった症状はSIDSとは無関係だということは
パネリストたちにはっきりしていると思えた。
この結論に全米SIDS財団は喜ぶにちがいなかった。
SIDS財団のリーダーたちは、
生きている赤ん坊と死んだ赤ん坊の両方をおおざっぱに一括りにする
「ニアミスSIDS」の考え方を長く毛嫌いしていた。
総意審査会のパネリストたちは以下の点で同意した。
事前に無呼吸症状――または無呼吸を起こしたと親が申し立てる事件――
を示したとされる数少ない赤ん坊たちの死因は、SIDSではないだろう。

SIDSと殺人[P.408-415]

一九七七年にロイ・メドウの論文が発表されてから十年間、
代理型ミュンヒハウゼン症候群は小児科の研究でのあらたな関心分野になった。
取り組んだ医師たちの中で、もっとも説得力ある問題提起をしたのは、
デヴィッド・サウソールである。

数年間かけて
SIDSと無呼吸セオリーとが無関係であることを暴いてきた結果、
サウソールは論理的方向と考えているものを研究テーマに取り入れようと決めた。
新しいテーマは医学的な重々しいタイトルがついている
――「強制的上気道障害」――が、実際に調査するのは児童虐待である。
ALTE(明白に生命を脅かす出来事)または死そのものが、
親や世話をしている人たちの手によって
どのように引き起こされるのかが知りたかった。

英国ではアメリカ以上にこの問題は微妙で、扱いは困難だった。
英国の法律では、子どもを殺した母親に対して、
出産後に精神が不安定になっていたり、精神障害を持っていると、
刑の軽減を考慮するほど開かれた考え方を長年とってきた。
一九二七年にブロードムアの国立精神障害犯罪者施設が調査したところ、
収容されていた女性の半分近くが自分の赤ん坊を殺していたことがわかった。
英国議会はその報告に基づいて、殺人から犯罪ではない「嬰児殺人」
――犠牲者が生後一年と一日以下の場合にかぎる――
に公的起訴内容を変更すると決め、
母親を刑務所ではなく病院に収容することにした。
一方で、ブロードムアの女性たちの中には、
実際には「ゆりかごの死」で赤ん坊を亡くした母親たちもいたと考えられる。
どちらにしても、半世紀くだってから、
英国人はアメリカのように母親を殺人者だと考えることには
もはやなんの興味も持っていなかった。
一九八二年に小児病理学者のジョン・エメリーが、
たぶんSIDSによる死と報告されたうちの一〇%は
「やさしい殺人」であると発表したとき、国をあげての大騒動になった。
エメリーは乳児の自然死と不自然な死の両方を追いかけている
稀有なSIDS研究所の一人だったが、
嬰児殺人について彼が引き出した実証的な結論によって非難を浴び、
ついには議会に呼び出されたりもした。

言うまでもなく、大西洋をはさんだ両国の流れに逆らうように、
サウソールは無呼吸セオリーから、
もう一歩勇気をふるって児童虐待の方向へと研究を推し進めた。
そのために彼と同僚はまるで探偵チームになったかのようだった。
七〇年代後半にはモニターとポリグラフが
無呼吸セオリーを調査するためのサウソールの道具だった。
いまや、意図的な無呼吸の
もっととらえどころのない考え方に確証を与えるため、
新しい道具であるビデオカメラを使うのが一番だと思った。

その最初のケースとなったのが、一歳十ヵ月の男の子である。
男の子は何回となく無呼吸とチアノーゼの症状で
緊急治療室に運ばれてきていた。
一歳八ヵ月のとき、ロンドンのブルンプトン病院に入院して、
モニターによって記録をとられることになった。
男の子の母親はぜったいにそばを離れようとしなかった。
ある晩母親に看護婦が呼ばれ、
駆けつけると男の子は青ざめて意識がなくなっていた。
酸素吸入で蘇生措置がとられた。
母親はベッドのほうから
「ゼイゼイ言う音」が聞こえてきたのでそばに見に行き、
おかしいと思って助けを呼んだと報告した。
四週間後に男の子は再入院して、
母親のそばで眠っていたときに二回同じ症状を起こした。
モニターの記録テープを分析したところ、
突然身体が動いたことが二回あり、どちらも一分間つづいたとわかった。
二回目の症状のとき、酸素モニターのリードが五秒間はずされており、
身体の動きが止まった直後にふたたびつながれていた。
この時点でサウソールと同僚は母親があやしいと疑いはじめた。

病院の記録を調べると、
母親がいないときにはどんな症状も起こっていないことが確かめられた。
子どもの病歴をもっと詳しくたどってみると、
最初の一年目でほぼ毎週のようにチアノーゼの症状を起こしており、
あきらかに数年前の姉のときより激しいとわかった。
多くの専門家たちに診察してもらっており、痙攣を防ぐ薬を処方されていた。
無呼吸のモニターも痙攣があることを示している。
一歳一ヵ月のとき、小児科のホームドクターは母親に、
あなたの息子はちゃんと成長しているから、
意識がなくなるようなことがあったときだけ精密検査をしましょう、と言った。
一週間後、男の子は意識をなくして病院に運ばれた。
「回復は長引いた」。サウソールはのちに書いている。
「神経障害が後遺症として残るのではないかという懸念があった。
症状のほとんどは意識喪失と痙攣だったからだ」

医師、看護婦、ソーシャルワーカーと病院の管理者の間で、
母親が息子を窒息させているという「仮説」をどう立証するか、
またどうすればやめさせられるかについて話し合いがもたれた。
その晩、ロンドン警察が病院にやってきて、
子どもが入っている病室の隣室にビデオ監視装置をセットした。

カメラをまわしはじめて十六時間後、
子どもは眠っていて母親だけが起きていた。
母親は椅子をベビーベッドから遠ざけると、ベッドの柵をおろし、
子どもの顔の横にTシャツを置いた。
数分間部屋を歩きまわってから、
息子の口と鼻をTシャツで覆い、頭を無理やりマットに押しつけた。
子どもは目を覚まして、激しく抵抗しはじめた。
これを見た婦人警官が看護婦に報せて、看護婦は病室に駆け込んだ。
「腕を調べていたの」。母親は言った。「ひきつってたんですもの」

そこで問題が起こった。
医師と刑事たちは病室に入るまでに四十秒間は待つべきだとしていた。
生命に危険が及ぶまでにはいかないが、
以前の出来事と照合してはっきりと書類で記録する事件にするためには
十分な時間を取らなくてはならない。
最初のときは、ビデオモニターの恐ろしい光景に動揺した
婦人警官の感情が先走ってしまった。

監視が再開された。
三十分後、母親はまたもや暴行を繰り返した。
婦人警官は小さなビデオの画面の中で
ばたばたと暴れている男の子を見てたじろいだ。
四十二秒後に看護婦たちが病室に飛び込んだ。
子どもは意識があった。
「大声で泣き叫んだから、あやしてやっていたんですよ」。
母親は言った。

母親は逮捕され、デヴィッド・サウソールの無呼吸セオリーに対する疑いは、
苦くも新しい方向へと転換することになった。
一九八七年に『ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル』で
このケースを発表してからニ、三年で、
ビデオカメラの監視によって三十二件の窒息による「無呼吸」が発見された。
報告されるごとに、サウソールの見方は厳しくなった。
「SIDSが何件起きているかわからないが、
ニアミスの三分の一が故意の窒息ではないか」。
一家庭で複数のSIDSが起こることについても、
同様に厳しい見方をしていた。
「ほかの死因が証明されないかぎり、
すべて代理型ミュンヒハウゼン症候群ではないかと思う」。
無呼吸セオリーを打ち出した論文で取り上げられたケースも、
結局はそれだったのではないかと彼は考えはじめていた。

中略

オークランドのヘルベルト・シュライヤーの見解によれば、
代理型ミュンヒハウゼン症候群の嘘にだまされる医師は、
母親とその無頓着なパートナーに狙われる。
子どもは単なる人質にすぎない。
母親は赤ん坊になんの感情も持っていない。
赤ん坊は彼女が心理的達成を図るための手段の一つとして存在しているだけだ。
「これが女性の倒錯の一つの形であり、
一種の詐欺行為であると強く訴えたい」と彼は言う。
「彼女たちは一見愛情深く、子どもを慈しんでいるようだ。
だが家庭にビデオを設置して観察すると、無視して話しかけようともしない。
子どもはどうでもいいのだ」

どうして親が子どもをかまわないのか、
どういう心理状態で無視できるのかは最大の謎だ。

中略

シュライヤーは、母親の心理的混乱があまりに強くて激しいので、
赤ん坊を人間ではなく一つの道具にしてしまおう
とするのではないかと考えている。
彼は、鍵は医師が象徴しているものにあるとした。
一般的に代理型ミュンヒハウゼン症候群にある女性は
――子どもを殺そうが病気にするだけだろうが――
自分が大事にされず、親から望まれず、無力だという思いを抱いていると言う。
ケースによっては、子どものころに受けた肉体的、
性的虐待が一つの要素になるかもしれない。
親からの心理的放置や遺棄を受けたケースがもっと多いが、
父親がいなかったり、存在が希薄だったりする家庭に育った女性も多く、
そういう場合には依存的性格になる。
だが依存的な人間でも人を操ったり支配することはできるし、
彼女たちが結婚相手に選ぶことが多い、精神的に弱い男性たちによって、
その行動は助長されることが多い。

シュライヤーはこういった女性が、
社会的に力があり手が届かない地位にある権威者――
この場合は幼いころのトラウマをいやしてくれるかもしれない医師――
と非現実的な関係を結ぶためにわが子を利用するという仮説を打ち出した。
赤ん坊が病気だと嘘を言ったり、
実際に病気にして注意を向けざるをえないようにして、
医師を自分の意のままにコントロールする。
こういう女性たちの中には、
医師の注意を引きたくて自分自身の病気もでっち上げて、
ミュンヒハウゼン症候群を同時に起こすこともある。
シュライヤーは『愛のための傷害』でこう書いている。
「そうすることによって彼女たちは、
強く愛し恐れている親の代理との、濃密で、でも距離をおいた、
異常で愛憎入り交じった関係を持とうとするのである」。
究極的にはこの複雑で強迫的で幻想でしかない脆い関係は、
一人か複数の子どもの死へと結びつく。
だが、とシュライヤーはつけ加える。
この嘘がばれるか、母親が逮捕されるときになってはじめて
「病院のスタッフは女性の奇妙な行動の断片をつなぎあわせる。
治療には強く関心を持つのに、親らしい気づかいは驚くほど欠けている。
また別のときには赤ん坊が治療を受けることに安堵したり興奮したりさえする。
自分が原因を作った病気から死にかけると動揺を見せる。
長時間病院ですごす間、
スタッフやほかの親たちよりもわが子に対する関心が希薄である。
そしてたくらみが見のがされているかぎり、
強迫的に自分の“追求”をつづけ、ついには逮捕される危険までおかす」

中略

赤ん坊が結局死んだとしても、母親はパニックをまったく起こさない。
むしろ落ち着いてしまう。
医師やほかの関係者たちがそれまで以上にやさしく接してくれるからだ。
この種の殺人が繰り返される原因はそこにある。
殺した結果得るものに中毒なってしまうのだ。
葬儀は母親が同情を集めることによって、
回を追うごとに巧妙に儀式化されていく。
一見したところ悲しみにくれているようでいて、母親たちはしばしば
「子どもが死んだというのに、深い悲しみを見せたり落ち込んだりしない。
おぞましく、死にいたらしめるほどの傷害を乳児に繰り返してきたというのに、
母親たちはあたかも自分たちのせいではないようにふるまう」
とシュライヤーは書いている。

ワネタの供述[P.435-436]

五人のわが子に死をもたらしたのは私です。

あのころ住んでいた家の居間で、私はエリックを窒息死させました。
あの子が泣いたので、泣くのをやめさせたかったから。
長椅子に座っていたときに、クッションを顔の上にかぶせて
(やわらかいクッションだったと思うわ)口をふさぎました。
暴れたかどうか覚えていません。
でも口や鼻から血を出したりはしませんでした。
死んでから抱き上げると、隣の人の家に行きました……。

ジュリーがつぎです。泣いていたのをやめさせたかったから。
ぐったりするまで、鼻と口を自分の肩に押しつけました。

つぎがジェームズです。
バスルームで着替えをしていたら、中に入ってきたがったの。
バスルームに入ってきたら、外に出した。
そしたら泣き出した。「マミー、マミー」って。
泣き叫ぶのをやめさせたかった。
だからバスタオルで窒息死させたわ。
やったのは居間よ。
顔からタオルをむしり取ろうとして暴れたときに、鼻血を出した。
死んでから抱き上げて、ゴミ収集車に手を振って助けを求めました。

つぎがモリーよ。
病院から帰ってきた翌朝、あの子はベビーベッドの中で泣いていたの。
そのときはベッドの中にあった枕を使って窒息させました。
死んでから、姑とシュテインシュナイダー先生に電話をしたわ。

ノアは殺した最後の子どもです。
病院から帰ってきて、ベビーベッドの中で泣いていた。
私は泣き声にがまんできないの。どうしたらいいかわからなくなる。
子どもたちを殺した理由は、全部それです……。
ノアの顔に赤ん坊用の枕を死ぬまで押しつけました。
それから姑とシュテインシュナイダー先生に電話しました。
七月の暑い日だったことを覚えています。

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