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書籍と雑誌の要約と解説

菜穂へ、そして未来を絶たれた天使たちへ

SIDS偽装事故を告発する

装丁
菜穂へ、そして未来を絶たれた天使たちへ 菜穂へ、そして未来を絶たれた天使たちへ
著者:櫛毛冨久美(赤ちゃんの急死を考える会長)
監修:油井香代子(医療ジャーナリスト)
小学館
ISBN4-09-387467-0
C0095
2003/10/20
¥1300
帯紙

もう赤ちゃんは死なせない!

うつぶせ寝窒息死で、たった一日でわが子を亡くした母親が
「死因はSIDS(乳幼児突然死症候群)」
と言い逃れる医療機関を仲間とともに追いつめる!

私たちが変えていく!

闇に葬られようとしていた虐待や過失事故を明らかにし、
被害者・患者側にあまりにも理不尽な司法制度の改革を迫る!
そして、ついに国を動かした!
母親たちの涙と優希の10年の行動記録。

目次
  1. たった一日の命
    1. 一度しか抱きしめられなかったわが子
    2. 死亡を知らずにつけた子どもの名
    3. 「私の赤ちゃんがいない!」
    4. 現金書留で送られてきた香典
    5. 「申しわけありません。私が殺しました」
    6. つらいのは私だけじゃなかった
    7. 変えられてしまった死亡理由
  2. わが子の真相を知りたい
    1. なぜ窒息死もSIDS(乳幼児突然死症候群)なの?
    2. うつぶせ寝事故は他でも起きていた
    3. 米英の病院を訪ねて知った驚きの事実
    4. 日本ではうつぶせ寝が危険だとだれも知らない
    5. このままでは赤ちゃんが危ない!
    6. 一緒に頑張れる仲間との出会い
    7. 再開した院長に告げた「私はあなたを許さない」
    8. わが子だけの問題じゃない
  3. 正しい裁きを求めて
    1. 素人に何ができる
    2. 生まれたばかりのわが子を使った実験
    3. 娘の解剖写真が私を叱咤激励した
    4. 事故を起こした病院に忍びこむ
    5. 被害者の証人になってくれる医師が見つからない
    6. サムライ魂をもった医師がいた!
    7. ころころ変わる証言
    8. 窒息かSIDSか? 正反対の鑑定書
    9. 証言が矛盾する医師と居眠り裁判官
    10. 正義はどこになる!?
    11. 退廷覚悟の最後の訴え
    12. ここで引き下がるわけにはいかない
    13. 600人の聴衆の前で裁判のおかしさを訴える
  4. もう赤ちゃんは死なせない
    1. 子を亡くした私たちは運の悪い人なのか
    2. 真理子ちゃんの両親が21年も闘い続けていたわけ
    3. 闇に葬られた130の小さな魂
    4. 相次ぐ被害者の親からの連絡
    5. 湧介ちゃんに起こった2度のミス
    6. たった3人で始めた「うつぶせ寝を考える会」
    7. キャンペーン開始! 電話が鳴りやまない
    8. 赤ちゃんは自分で窒息を避けられるか
    9. 30人以上の赤ちゃんで撮った実験ビデオ
    10. 海外ではうつぶせ寝をやめてSIDSが激減
    11. 横浜市が日本で初めて防止パンフレット配布
    12. 日本でも赤ちゃんのSIDSの死亡数が半分に減った
  5. ママたちの10年戦争
    1. SIDSの壁を打ち破るために親たちは団結した
    2. 会に寄せられる理不尽な被害の数々
    3. 医師の鑑定書がすべてなのか
    4. 専門家4人対母親ひとりの闘い
    5. ヤッター! 画期的な判決を勝ち取る
    6. 46歳でやっと授かったわが子が
    7. 志保ちゃんの解剖写真
    8. 子を失った苦しみを乗り越えるまで
    9. 悪い弁護士もいれば良い弁護士もいる
  6. 子どもからの宿題
    1. 家庭保育室で起きた事故
    2. お母さんが出した示談の条件
    3. 娘の死を決して無駄にしない!
    4. 明るみに出たちびっこ園の恐ろしい実態
    5. 保母(保育士)の証言を得るために現場に飛びこむ
    6. わずか10畳に35人の子どもがいた
    7. 「廃園になったら多くの親が困るはず……」
    8. 「飛士己は園長に殺されたんです!」
    9. 胸ポケットに忍ばせた録音機
    10. 園長の虐待の告白にも動かない警察
    11. あきらめていた親たちも声をあげだした
    12. もう「SIDS」と言い逃れはできない
    13. 次々に飛びこむうれしい判決
    14. 私たちに課せられた役目

内容

窒息させられた櫛毛菜穂がSIDSに摩り替えられた顛末[P.12-14_18-19_24-25_30-36]

菜穂が生まれて1日後の未明、自宅で眠っていた夫は電話のベルで目を覚ました。

「申しわけありません。赤ちゃんが亡くなってしまいました」

2月9日、午前3時40分ごろのことだった。
電話の声は出産した病院のA院長のものだった。

「えっ!! どうしてあんなに元気だったのに」
「赤ちゃんをうつぶせ寝にして、看護婦が行ったときには窒息して亡くなっていました」
「だれがうつぶせにしてくれと頼んだんだ、なんで勝手にうつぶせなんかにしたんだ。警察に連絡したのか?」
「連絡しました」

凍てつく寒さのなか、夫が病院に駆けつけると、
ナースステーションの奥の処置室にベビーコットが置かれていた。
その横に夫が見たのは、呆然と立ちすくむ院長の姿だった。

中略

ナースステーションでは、B助産婦がくずれるようにへたりこみ
「申しわけございませんでした。私がいけなかったのです」と泣きじゃくっていた。
その後ろでもうひとりの看護婦のCさんが泣きながら呆然と立っていたという。

院長、B助産婦、C看護婦は、夫に繰り返し謝罪し、
「赤ちゃんの死亡原因はうつぶせ寝による窒息死です」と伝えた。

「助産婦のBがお子さんをうつぶせ寝にし、
看護婦のCが次のオムツ交換に行ったときにはすでに死亡していました。
Cが自宅にいる私を電話で呼び出し、
私が医院に駆けつけてお子さんを診たんですが、
聴診器をあてるまでもなくすでに死亡していました」

院長は弱々しい声で夫に説明した。

それを聞いて、最初に夫の頭をよぎったのは、
『産後の妻が子どもの死を知って、ショックのあまりに気が変になるのではないか』
ということだった。

「子どもが死んだことは妻には伝えないでくれ、私の口から機会をみて直接伝えるから。
これだけは守ってくれ」

夫は院長に強い口調で言った。
そして、話し終わったとたん、
胃液がこみ上げてきてその場に立っていられなくなり、洗面所に駆けこんだ。
突然の子どもの死のショックで夫はゲーゲーと吐き続けた。
吐きながら声を出して泣いた。

*

翌日、2月10日午後1時、院長から3度目の説明があった。
夫、夫の母フクエ、私の両親の4人を前にして、
院長は病院の管理体制がずさんだったと謝罪した。
そして最後にこう言ったという。

「責任を取って病院を閉鎖するつもりです」

中略

その日、病室に来た夫から「子どもの名前を早くつけなければ、冨久美に任せたよ」と、言われた。

「2週間以内につければいいんでしょう? ゆっくり考えたいんだけれど…」

「早いほうがいい」という夫の主張に、私は素直に従うことにした。
あとでわかったことだが、夫は私に名前をつけることに集中させ、
事故を悟らせないようにしていたそうだ。

「早春だし、菜穂子っていう名前が好きなの。でも、画数が悪いの」

「画数なんか、関係ないよ」と夫に言われながらも、
私は画数にこだわり、子どもに『菜穂』と名づけた。

「菜穂か、いい名前だね」

夫はそう言い残して、区役所へ出かけていった。
早足で歩きながら、夫は涙が止まらなかったという。

「ほんとうは、埋葬証明書をもらうために名前が必要だったんだよ。
せめて、冨久美の好きな名前をつけさせてあげたかったんだ」

だから、あのとき私をせかせたのだった。
夫はあふれる涙を拭おうともせず『櫛毛菜穂』と記入し、
出生届と死亡届を一緒に提出した。

*

『目の前にいるのが私の赤ちゃんなのだろうか?』

小さな棺の中で眠っている赤ちゃんの頬を両手に包んだ。
頬は桃のような形で確かに菜穂だった。
しかし、冷たい、冷たい氷のような頬だった。
涙があふれてポタポタと菜穂の頬の上に流れ落ちた。
この温かい涙で菜穂が生き返るのを願った。

「抱っこしていい?」と聞いたら周囲の人に止められた。
最後に菜穂を思いっきり抱きしめたかった。
抱きしめてあげたかった。

2月の寒い日だった。
私は立っているのがやっとというほど体が弱っていた。
身内とごく親しい人だけの寂しいお葬式だったが、
知った顔も知らない顔の人も、すべてを食い入るように見つめ、頭を下げた。

たった一日の命。
生きている菜穂を見た人はごくわずかで、
菜穂がこの世に存在していたのを知っている人も少ない。
だけど、私は、菜穂がどんなにかわいかったかをひとりでも多くの人に知ってほしかった。
菜穂がこの世に存在したことを知ってほしかった。
そうでなければ、菜穂があまりにもかわいそうすぎてやりきれなかった。

火葬場で菜穂の骨を大切に拾って骨壷に入れた。
小さいが白いきれいな骨だった。

火葬場から帰宅し、タクシーから遺影を抱いて降りた。
ほんとうなら白いおくるみにくるまれた菜穂を抱いて、
うれしさいっぱいで家に帰るはずだった。

ふと見ると、留守中のドアに郵便物の不在配達通知書が挟まっていた。
夫が郵便局に取りに行くと、現金書留の中にA院長からの香典が2万円、入っていた。

私も夫も怒りがこみ上げてきた。
父も母も義母も怒りの声をあげた。

*

『お葬式までは』と張り詰めていた緊張の糸がぷっつりと切れた。
父親や親族も心配しながら田舎へ帰って行った。
焼香に訪れる人もほとんどおらず、寂しく日々が過ぎた。
体に力が入らず、私はずっと床に伏せっていた。

頭に浮かぶのは数少ない菜穂との思い出ばかりだった。
出産直後の菜穂、初めて抱いたときの菜穂、そして、冷たくなった菜穂。
その三つの菜穂の映像だけが、
フラッシュバックのように繰り返し、繰り返しよみがえってくる。
鉛を飲みこんだように胸が苦しかった。

相変わらず、乳房が張り、噴水のように乳が出た。
泣きながら搾乳し、菜穂の仏前に供えた。

「菜穂、おっぱいをあげるね。
お母さんはどんなにか、菜穂に飲ませたかったか。
でも、一度も飲ませてあげられなかった。ごめんね」

そして、たった一枚しかない写真を下から見たり、斜めから見たりした。
そういえば、菜穂が目を開けたところを一度も見ていない。
どんな目だったのだろう。
大きくなったらどんな子になったのだろう。
そんなことを思いながら、毎日泣いていた。

こんな日が何日も続いた。
母親は私の兄を水の事故で亡くしているので、
そのときの気持ちを話して私を慰めてくれた。
私もこの蟻地獄のような苦しみからはい上がりたかった。
そんなときだった。

ある日、長女の志穂が「赤ちゃんを抱っこしていい?」と遺影を指差した。

「いいよ。どうするの?」

そう言って、遺影を志穂のひざの上に置いてあげると、
志穂は菜穂の仏前に供えてあったおもちゃのガラガラを持ってきた。
そして、ガラガラと鳴らしながら、写真の菜穂をあやし始めたのだ。
つらいのは、私だけでない。
4歳のこの子も妹の誕生を心待ちにしていたのだ。
そして、何よりも泣き暮らしている母親を見て、深く傷ついているのだ。

「私がこのままでは、夫や志穂にも災いが降りかかるかもしれない。
これ以上の不幸を食い止めて、家族を守らなければ」

写真の妹と無心に遊ぶ志穂の姿を見て、志穂のために強くなろうと決心した。

この日を境に、夫や子どもを亡くして、
その不幸を乗り越えた知人や友人に電話をかけ、助けを求めた。

「どうやって、悲しみから立ち直ったの?」と、ぶしつけに尋ねることもあった。

そして、産後の出血が続いていたが、外に出ることにした。
まっさきに、日赤の救急看護の資格を取るために講習に通うことにした。
今後、家族に緊急事態が起こったときには、
私が蘇生の処置をできるようになりたかったからだ。
菜穂の死に対して何もできなかったことへの自省の念があったのかもしれない。
同時に、運転免許を取るため自動車学校にも通った。

何をしていても、心のなかで
『菜穂、ごめんね。いまは、お母さんが元気になるためにしばらくの間だけ、
菜穂のことを忘れるようにするね。ごめんね』と謝り続けた。
菜穂以外のことに神経を集中させ、その時間が少しでも長くなるようにしたかった。
しかし、外出時、バスの中で、突然、心臓がバクバクしてきて息苦しくなり、
パニックになりそうになった。
また、次の日は、人前にもかかわらず、涙が止まらなくなった。
自分でもコントロールできないほど、心が不安定になっていた。

中略

先方との話し合いのなかで、2000万円という示談金の提示もあった。
医師は医療事故に備えて、所属する医師会の保険に入り、
もし事故が起こると、保険会社や医師会の弁護士が交渉相手となるのが普通だ。
2000万円の示談金といっても、保険から支払われるため、
医師側が経済的に打撃を受けるわけではないのだ。

私たち夫婦は、子どもの命の値段がいくらか見当もつかなかったし、聞きたくもなかった。
それどころか、子どもの命が戻ってくるのなら私たち夫婦は2000万円でも、
それ以上でも、喜んで出しただろう。
親とすれば、すんなりと示談金だけを受け取って、すべてをおしまいにしたくはなかった。

そうこうするうちに、その年の7月、突然、病院側の弁護士から手紙が送られてきた。

「菜穂の顔はやや右下を向いていたので窒息ではない」

手紙の内容は不可思議なものだった。
死後6か月もたっているうえ、司法解剖が行なわれ、
そこでも説明されていた窒息死を完全に否定してきたのだ。
そして、「1歳以下の乳児の死因でいちばん多いのは、
減員不明の乳幼児突然死症候群(SIDS)だから、
菜穂の死因もSIDSである」と書かれていた。

それだけではなかった。
これまで、赤ちゃんが突然死して、裁判になったケースがいくつもあり、
訴えた遺族側が敗訴となった裁判の判決一覧表までつけてきたのだ。
私たち夫婦は、両頬を思いっきり殴られたような衝撃を受けた。

「あれほど謝罪していたA院長の誠意や責任はいったい何だったのか!」
「大切な子どもの命や未来を奪っておいて、親をこれほど苦しめた仕打ちがこれなのか!」

夫と私は心の底から怒りを感じた。

私は手紙を握りしめたまま、すぐ、警察署に行った。

「先方の弁護士からこんな手紙がきたんです。
菜穂は窒息ではないって。いったいどういうことなんでしょう」

私は担当の刑事に相談した。

「B助産婦が窒息させたことを認めたし、司法解剖でも窒息になっています。
また、生まれたばかりの赤ちゃんでは窒息するのを回避できません。
この3点の理由から、警察は窒息死として、検察庁に書類送検しました」

担当刑事は病院側の調書を見ながら丁寧に説明してくれた。

調書には、B助産婦が窒息を認めていることや、
A院長が蘇生処置をしなかったことなどが書かれているのが見えた。

「しかし、民事裁判となると、
警察は民事不介入なので弁護士さんに頑張ってもらってください」と刑事は言った。

出産よりも辛い乳房の張り[P.19-20]

乳房が張り始めた。
病院からは、母乳止めの薬を出されただけだった。
しかし、効かなかった。
子どもを産んだら、乳が出るのはあたりまえのことなのだ。
乳が出る。乳が出るのに子がいない。
乳房は血管が浮き出て、赤紫色にパンパンに腫れあがってきた。

看護婦からは「凍らせて固めればよい」と、保冷パックに手渡された。
しかし、熱のため、すぐ溶けてしまったので換えてもらおうとしたところ、
ひとつしかないと言う。
その夜、私は一睡もできない状態になり、痛みは乳房から脇のリンパ節を通り、
肩からこめかみまでキーンと走り、正気を失いそうなほどだった。

出産でも泣き言を言わなかったが、あまりのつらさに私はついに泣き出してしまった。
付き添っていた母が看護婦に訴えたところ、やっと、
外部から乳房マッサージの助産婦さんをよんでくれた。
助産婦の木下(仮名)さんが、マッサージをするとうす黄色の初乳が出た。
そして、噴水のように乳が出た。
カチンカチンに張った乳房から搾乳してもらうと少し楽になった。

広義には事故死でもSIDSになるカラクリ[P.39-40]

SIDSは「乳幼児の予測できない突然の死」だが、狭義の定義では、
「解剖や死んだときの状況をいろいろ調べても事故や他の病気でないことがわかった」
場合にようやくSIDSと診断されることになる。

ところが、広義の定義では、ただ「死亡が予測できない突然死」ならば、
解剖をしたり事故かどうかを調べなくてもすべてSIDSと診断できることになる。
ひとつの言葉にふたつの定義があり、死因の診断にふた通りあるということだ。
医学に素人の私から見てもなんどもおかしな話だと思った。

菜穂の場合で言えば、こういうことになる。
菜穂は警察の解剖で窒息と出ているのでSIDSとは到底考えられない。
しかし、広義の定義で言えば、事故で死んだとしても、
「予測できない突然の死」だからSIDSと診断できてしまう。
「うつぶせにして窒息した」菜穂の場合もSIDSの範囲に入ってしまうことになる!

『これでは、元気だった赤ちゃんが事故死したのはすべてSIDSになってしまうではないか! 
こんなふざけた定義を作ったSIDS研究班とはいったい何なのだろうか』

誕生日を祝うために預けた子供が事故死した徳里夫妻[P.44]

「妻の誕生日にお祝いをするために、4か月半の長男をたった一日、
無認可保育園に預けていて事故に遭ったんです」

ご主人は事故のいきさつを話してくれた。
ふたりは事前に託児所を何か所かまわり、
産婦人科医が経営している所を選んだという。
何かあっても医師がいれば安心だと思ったからだ。
しかし、事故が起こってしまった。
子どもは顔を真下に向けたままで発見された。
鼻はつぶれ、手足は死後硬直していた。

「解剖の結果は窒息死でした。うつぶせ寝にしたせいで子どもの鼻がつぶれていました」

うつぶせ寝ルールを守っていない琉球大付属病院[P.51-52]

私は国内の病院の実態をもっと見てみたいと思った。
そして、ハワイから帰った後、国内フライトの宿泊先で時間があるときは、
各地の病院めぐりを始めた。

最初の訪問は沖縄だった。
ここには大きな病院が三つあったが、そのなかで琉球大の付属病院に行ってみた。
産科病棟に行き、新生児室から出てきた看護婦に声をかけた。

「うつぶせ寝は日常的にしています。
小児科の先生も勧めているし、うつぶせ寝が好きな子もいますよ」

新生児室をのぞいてみた。
ベビーコットのマットをさわらせてもらった。
マットは硬かったものの、タオルを折りたたんで枕代わりにしていた。
バスタオルもかけていた。
これまで読んだうつぶせ寝の資料によると、
「タオルを枕代わりにするのは窒息の危険があるので禁止」
と書かれていたのだが…。

第一回日本SIDS研究会に見るデタラメな診断状況[P.62-63]

SIDSに関する日本で初めての研究会の開催ということで、
日本中のSIDSに関係している医師や研究者が集まっていた。
発表する医師たちは自分の病院で発生した事例を報告していた。
次々と報告される内容を聴いていて、私は次第に疑問がふくらんできた。
SIDSと発表しているのだが、なぜSIDSなのかという理由を、
はっきり説明していない発表が多かったのだ。

私が読んだ海外の文献などには、
窒息とSIDSの違いを調査・検討するのが必要不可欠と記されていた。
ところが、こおで発表されたSIDS事例のほとんどが、
窒息かSIDSかの検討がされていないと思った。

たとえば、「入院中、突然死したSIDSの4症例の検討」という都立病院の医師の発表では、
4か月の男児が肺炎で入院し、翌日の深夜に心停止で発見されていた。
解剖もしないのに、この例をSIDSとしているのだ。

また、2歳4か月女児のミンヨンナムちゃんが40度の発熱と嘔吐で入院した。
ヨンナムちゃんは先天性の病気も治療中だった。
深夜、心停止しているのを看護婦によって発見されたのだが、
このケースも解剖はされなかった。
SIDSの診断には解剖が絶対必要なのだ。
なのに、解剖もされていない。

両方とも死亡発見時の状況も明らかにされていない。
うつぶせにされていたのか、鼻や口は寝具などでふさがっていなかったのかもわからなかった。

特に、ヨンナムちゃんの例は、年齢が2歳4か月でSIDSの症例としては年が上過ぎた。
SIDSはほとんどが1歳未満で起こり、2歳でSIDSというのは聞いたことがなかった。
少なくとも、世界で定義されているSIDSの最低条件、
解剖をして診断するといった条件が無視されていた。
つまり、SIDSの世界的な標準定義にあてはまっていなかったのだ。
このような発表をしていいものだろうか? 
疑問を通り越して、ただ驚くばかりだった。

これらのケースは、まず、不審死や異常死体として警察に届けられるべき例ではないか!

まるで、最初からSIDSと決めつけて事例を集めているようなものだった。

うつぶせ寝慎重派[P.86-88]

杏林大学附属病院の病院長をされたこともある鈴木正彦産婦人科名誉教授をご紹介いただいた。

中略

鈴木先生はうつぶせ寝にずっと疑問をもっていらして、
日本母性衛生学会の会長をされていた1989(平成元)年に
「うつぶせ寝、是か非か」というシンポジウムを開かれていたのだ。

このときの様子を話してくださった。

「私や佐藤先生は、うつぶせ寝には問題があるという立場で、
推進派の先生たちとやり合ったんですよ」

このとき、慎重派と推進派の医師たちの間で、
非常に白熱した議論が交わされたということだった。

中略

いつしか先生の口から、
「櫛毛さんの裁判や活動が、うつぶせ寝をやめさせる原動力になるかもしれない。
いまが黎明期ですね。うつぶせ寝をやめさせるときがすぐそこにきている」
という言葉が何度も聞かれるようになった。

そして、1年後、意見書を書くことを引き受けてくださった。
患者側の意見書を書くことに医師仲間からかなりの圧力をかけられたようだったが、
それをはねのけ、しかも、証言台にも立ってくださったのだ。

経歴を詐称する証言医師[P.95]

米田「あなたの経歴に、厚生省SIDS研究班・班員と書いてあるのは間違いないですね」

I医師「間違いないです」

米田「厚生省で私が調べてみるとI医師名の班員は在籍していないと回答を得ているのですが、
そうではありませんか?」

I医師「厚生省が違うと思います」

ようするに、「経歴詐称」をしていたということなのだろうか?

裁判官の居眠りは珍しいことではない[P.97]

証人尋問のとき、右陪席の裁判官が居眠りをしていたのも、ショックだった。

「院長の尋問というもっとも大切なときに、居眠りするなんて!」
と私たち夫婦が怒りをぶつけると、米田弁護士が苦笑しながら言った。

「裁判官の居眠りは珍しいことではありませんよ」

「一緒にがんばろう」という言葉に救われた櫛毛冨久美[P.118-119]

8年に及ぶ活動をともにしてきた及川美和子さんは、
もの静かだけれども芯のしっかりした女性だ。
彼女の細かい気配りで私は何度も助けられてきた。
及川さんと初めて出会った「SIDS(乳幼児突然死症候群)家族の会」の会合で、
彼女は「一緒に頑張ろうね」と声をかけてくれた。

この「一緒に頑張ろう」という言葉に私は救われたといっていい。

これまで、菜穂の事故を知った人は、
「運が悪かったね」「頑張ってね」と励ましの言葉をくれた。
裁判を始めたのを報道などで知った人は、
「頑張っているんだね」「大変ね」という言葉をかけてくれた。

善意から声をかけてくれていたのだけれど、
やはり、自分たちの悲しみや怒り、悔しさ、
そして裁判の理不尽さや大きな負担などを思いっきり話すことはできなかった。
話して理解は得られても、話の内容は相手の気持ちを重くし、困惑させるものだった。
けっして楽しいものではないし、何度でも聞きたいものではない。
善意から聞いてくれていることがわかるだけに、
私は相手の気持ちに負担をかけないよう、自分の気持ちを推しつけないように、
控えめに話すようになっていた。
自分の感情や本音はあまりあからさまにしないようセーブしていた。

そのため、外から明るく元気に見えたけれど、
ほんとうの私の内側は傷口がぱっくりと開き、だらだらと血を流し続けていた。

廊下を隔てたところで、
わが子が苦しみ死んでいったのを助けることができなかった罪悪感に悩まされ、
事故後の病院側の裏切りに人間不信に陥り、自分の甘さに落ちこんでいた。

私は「頑張って」という言葉よりも「一緒に頑張ろう」という言葉を持っていたのだ。
背負った荷の重さで押しつぶされそうになっていた私に、
及川さんが救いの手を差し伸べてくれたといっていい。

観光旅行目的で出張尋問する裁判官[P.122]

被告が裁判所に鑑定を要求したにもかかわらず、
その鑑定費用は原告の及川さんが出すよう命じられた。
そして、鑑定人が札幌在住のため、札幌までの出張尋問となった。
2月の札幌雪祭り直後だったが、
裁判官たち3人分の飛行機代と宿泊費までも及川さんが負担するはめになったという。
ふつうの公務員には簡単に出せる額ではない。

しかし、身を削るようにして払った費用にもかかわらず、
札幌地裁での証人尋問は正味40分しか行なわれなかった。

「尋問終了後に鑑定人から『私が横浜のほうに行くことも申し出たのですが、
裁判官のほうが着てくれることになった』と聞いたときには、唖然としたわ。
裁判官が観光旅行をしたかったのでは? と疑った」と及川さんは悔しそうに話していた。

看護学校ではうつぶせ寝の注意点を教えない[P.131-132]

ある看護学校にも出向いた。
看護学校の先生は快く対応してくれ、小児看護の教科書をくださった。

「うつぶせ寝をすると、赤ちゃんがよく眠るので、現場ではよく行なっています。
うつぶせ寝に対する注意は教科書のどこにも書いてありませんし、学校でも教えていません」

先生はこう話してくれた。

その他にも、できることは何でもしてみた。
井上さんと一緒に多摩市の市会議員、小児科医、市役所、保育所などもまわった。
でも、「うつぶせ寝が危険」という認識はだれももっていないようだった。

いろいろな所をまわってわかったことは、「うつぶせ寝」は未熟児医療に適していて、
赤ちゃんにとって筋力や骨格の発達によく、よく眠り、手がかからないというのが、
わが国の多くの医療関係者の認識であり、一般の若い親たちの知識だった。

うつぶせ寝を考える会[P.132-135]

1995(平成7)年11月24日、私たち3人は、
「うつぶせ寝を考える会」を結成することになった。

中略

すぐに「発足のお知らせ」を井上さんのご主人が作り、
うつぶせ寝にする際の条件をまとめ、以下の3点の主張を載せた。

1、家庭では管理が難しいため、育児としてのうつぶせ寝をやめよう。
2、遊ばせているときに腹ばいにさせよう。
3、1対1の保育が不可能な病院や託児所ではうつぶせ寝はやめよう。

及川さんが「うつぶせ寝」や「SIDSと窒息」についてわかりやすく資料にまとめた。
そして、裁判や事故のことを取材してくれた新聞社やテレビ局を手始めに、
面識のないメディアにも電話をしたり、手紙を出したりして、
私たちの知っている事実を訴えた。

その努力が実り、翌年の1996(平成8)年1月20日に、
読売新聞が「医療ルネサンス」の欄で井上さんの事故をもとに
「うつぶせ寝めぐり論議」「診断基準もあいまい」という見出しで取り上げてくれた。

そして、その2日後、
朝日新聞の大久保記者が夕刊の第1面にカラー刷りの写真つきで取り上げてくれた。
「うつぶせ寝大丈夫なの」「目を離すと窒息の恐れ」「欧米から見直しの動き」の見出しで、
母親たちが「考える会」を結成したと書かれていた。
非常にインパクトのある記事だった。
事務局の電話番号を掲載していたため、
井上さん宅の電話が2日間、鳴りっぱなしになった。

中略

このふたつの記事が起爆剤となり、他のメディアからの問い合わせが殺到した。
私たちは次から次へと取材を受けた。
2月に入り、及川さんのもとに、
うつぶせ寝を推奨していた杉山医院から「うつぶせ寝をやめる」という手紙も届いた。

中略

フジテレビの報道番組でも特集を組んでくれ、井上さんと私たち夫婦が出演した。

医療ミスをニアミスSIDSにされた山本翔三[P.135-136]

会の結成から間もなくして、
女性週刊誌にうつぶせ寝で障害を負ったという山本翔三くんの記事が掲載された。
私はさっそく編集部に電話をし、お母さんの山本妙子さんに連絡を取った。
山本さんは自宅が横浜だったため、私が伺うことにした。

事故が起きたのは1992(平成4)年。
翔ちゃんは生後2か月のとき、気管支炎にかかり入院していた。
その病院でうつぶせで顔を真下にしているところを発見された。
一命は取りとめたが、四肢麻痺の重い障害が残った。

当直医は、「授乳後、排気させずにうつぶせ寝にしていたが、
回診に行くと嘔吐していました。
点滴のため右手を添え木で固定されていたため、
それがじゃまで顔を横に向けられず、
誤飲と窒息状態でチアノーゼを起こしていました。
呼吸が止まり、脈拍もふれず、心音も聴かれなかった。
お預かりしておきながら、不注意でどうもすみませんでした」と説明して誤ったという。
「にもかかわらず、退院後に『SIDSニアミス』とカルテが書き換えられてしまったんです」
と、妙子さんは話してくれた。

翔ちゃんは、愛くるしい目と天使のほほえみをもったかわいい4歳の男の子だった。
しかし、オムツをつけていて首もすわらず、しゃべることもできなかった。
自宅で妙子さんがひとりで介護をしていた。

赤ちゃんの回避能力は誤謬だった[P.137-142]

育児書や保育書のほとんどには
「首がすわる4か月ぐらいまではうつぶせ寝にすると窒息の危険がある」
と書かれているが、小児の発達神経がご専門の前川教授の文献のなかには
「伏臥位(うつぶせ)にすると、どちらかの方向に顔を向ける。
正常では窒息することはない」と書かれていたのだ。

つまり、赤ちゃんには「回避能力」が生まれつき備わっているというのだ。

しかし、私はうつぶせ寝に関する論文や育児書を集めるにしたがって、
この『回避能力』に疑問をもち続けた。
生まれて間もない赤ちゃんに、ほんとうに回避能力があるのだろうか?
あるとしたら、それを裏づける実験やデータが存在するはずだ。
なのに、いくら探しても、「うつぶせ寝で窒息の実験をした」という文献は見つからなかった。

ところが、裁判となると、
「首のすわった4か月児は窒息しない。顔を横にして窒息を回避する」
という理屈で判決はくだされてしまうのだ。はたしてほんとうだろうか。
個人差、寝具の状況、赤ちゃんの体調、大人の管理などいくつかの悪い状況が重なれば、
窒息事故が起こるのではないだろうかと思い続けていたのだ。

回避能力があると言っている前川先生にその根拠を伺うまたとない機会だと思った。

中略

すると意外なことに、

「実験はしたことがなく、あれは、海外の文献をもとに書いています」

という答えが返ってきたのだ。
どうりで、いくら探しても実験データが見つからなかったはずだ。

また、SIDSとうつぶせ寝の関係も、思い切って聞いてみた。先生は、

「自分は専門ではないので東京女子医大の仁志田教授が詳しい」と答えられた。

中略

前川先生にお会いした直後、徳里さん(41ページ参照)の裁判に提出された仁志田先生の鑑定書を読む機会があった。
解剖医は解剖所見から窒息と診断していたが、仁志田先生は持論を展開し、
「4か月児はうつぶせ寝だけで窒息する可能性は極めて薄いのでSIDSが妥当。
鼻がつぶれたのは死後に起こったと考えられる」と鑑定していた。

この鑑定書で、徳里さんに有利だったはずの裁判の流れが一変してしまったのだ。
鑑定書を盾に、被告の産科医は「一銭も払わない」と言い放って、和解の協議を再三すっぽかした。

中略

この仁志田先生の「うつぶせ寝で窒息する可能性は極めて薄い。
…本児はSIDSで死亡した」と書かれてた文面を目にしたときに、私は決心した。

「自分の子どもで実験しよう」

そして、三女の茉帆が徳里さんの亡くなった赤ちゃんと同じ
4か月と17日になった日に「うつぶせ寝の実験」を決行した。

テーブルの上に、薄いキルティングのパッド一枚とバスタオルを敷いただけの寝具を準備した。
水準器と物差しも用意し、ビデオをセッティングした。
そこに茉穂をうつぶせで置いてみた。

「1、2、3秒」と数える間もなく、茉帆の顔がゆがみ泣き始めた。

「5、6秒」茉帆は顔を真下にして泣き続け、一度、バスタオルに顔をつけた。

「11、12秒」顔を持ち上げるが、一瞬であり、また、顔を真下に向け、号泣した。

「20、21秒」と数える間、何度も顔をバスタオルにくっつけたり、
首を一瞬持ち上げたりを繰り返したが、だんだん持ち上げられなくて、
鼻と口がふさがる危険な状態になった。
この間、わずか3~4分の出来事だった。

茉帆は、「窒息」を避けるために顔を横に向けるという「回避能力」が、まったくなかった。
茉帆を抱き上げたとき、真っ赤な顔で息が荒かった。

「ごめんね、ごめんね」

と茉帆をあやしながら、文献だけの「回避能力」いかに無責任なものかを実感した。
専門家とはいったい何だろうという疑問がますます大きくなった。

自分の子どもの実験だけでは、データが少ない。
もっと多くの赤ちゃんの実験が必要だった。
2か月から半年ぐらいの赤ちゃんの実験をしようと、
何人かの友人に頼み、協力してもらうことにした。

しかし、いざ実験を行なうとなると、どうしても躊躇してしまった。
やはり、何らかの危険が伴うことになるし、赤ちゃんが号泣する。
自分の赤ちゃんがおお泣きしている姿に母親が耐えられるはずがなかった。
だから、なかなか簡単に頼むことができなかった。
ひと息入れてから、勇気を振り絞って頼むことになった。

そんなとき、山本さんが協力を申し出てくれたのだ。
山本さんは、翔ちゃんの下にも子どもが3人いたので、赤ちゃんのいる友達が多かった。
そのほとんどの人が翔ちゃんのために協力を申し出てくれた。
山本さんと友達のおかげで、30人以上の赤ちゃんの実験を行ない、記録を取ることができた。

この実験でわかったことは、
「うつぶせ寝にすると顔を真下にして窒息する状態になってしまう」
赤ちゃんがかなりの割合でいるということだった。
個人差があり、数名はかろうじて顔を横に向けたが、
20数名は顔をそのまま下に向けたまま、鼻や口をシーツに押しつける格好になってしまう。
とても「回避能力」があるとは断定できない結果となった。

うつぶせ寝推進派に論拠なし[P.142-145]

1996(平成8)年2月、
私と井上さんは名古屋で開かれた第2回日本SIDS研究会に参加した。

中略

私たちは会場の片隅で、うつぶせ寝禁止キャンペーンに異議を唱えていた名古屋市立大のTG助教授に接近した。

「なぜ、うつぶせ寝をやめるキャンペーンをなさらないのでしょうか?」

私はにこやかに尋ねた。

「うつぶせ寝は赤ちゃんの発達に効果があるし、
赤ちゃんには回避能力があるから、危険ではありませんよ」と、先生が反論された。

私たちはすかさず、多くのお母さんや赤ちゃんたちの汗と涙の結晶である
「うつぶせ寝の回避能力の実験ビデオ」を取り出して、その場で見てもらった。

ビデオには顔を真下に向け、号泣する三女の茉帆が映った。
すると、先生はその姿を指差して、
「この子は病気です。ハイポトニー症という筋力が低下する病気です。
正常な子は顔を横に向けます」と断言されたのである。

この答えには非常に驚いた。

「先生、この子は私の子で、いまは1歳半で元気に走りまわっていますけど…」
「だとしたら、最後には、顔を横に向けるはずです。うつぶせで窒息はしません」

先生はまたもやこう断言された。

「これ以上続けるとほんとうに窒息するので、これ以上の実験はできないのです」

こう反論したが、結局、このやり取りだけで、素人の意見はそれ以上聞き入れてもらえなかった。
私は話題を変えて食い下がった。

「海外ではうつぶせ寝をやめてから、突然死が激減しています。
先生もうつぶせ寝をやめるキャンペーンをしてください」

「うつぶせ寝とSIDSは関係ありませんよ。
SIDSはむしろあおむけ寝のほうが多いんです。
キャンペーンをすれば、家庭でうつぶせ寝にしていて、
子どもを亡くした親を責めることになりますよ」

「でも、このままでは子どもを亡くす親をもっと増やすことになります」

はっきりした答えを聞く前に、海外の講演者のひとりが近づいてきて、
TG先生との会話は中断されてしまった。

この学会でわかったことは、専門家も「うつぶせ寝で窒息しない」という
科学的な根拠を示すことができないということだった。

SIDS国際会議で情報交換をしない日本人研究者[P.147-149]

多くの講演をまわり、私の気持ちの半分は高揚していて、そして、あとの半分は沈んでいた。
なぜなら、海外の研究者は講演の合間にお互い熱心に情報交換をしていたのに比べ、
日本の研究者がほとんど参加していないという現実を見せつけられたからだった。
日本からの発表は数名の研究者のものだけだった。
しかも、自分の発表がすむと、別の研究機関の視察や観光に行ってしまうのだった。
海外の研究者と話しこんでいる日本人の姿を目にすることはなかった。

『だから、いつまでたっても日本の医療は鎖国のままなのだ』

SIDS家族の会予防キャンペーン委員会(1996年)[P.151]

10月、横浜で「SIDS家族の会・予防キャンペーン委員会」の会合が開かれ、私も出席した。
出席者は他にSIDS研究班班長の仁志田教授、ステファニー会長、及川美和子さん他合計8名だった。

会議では、アンケート調査の実施、予防パンフレットの作成、
厚生省への強力要請等について話し合った。

東京慈恵医大法医学教室の再検討ではSIDS率20%[P.155]

1997(平成9)年3月の第3回SIDS研究会のとき、
「うつぶせ寝が危険だということをこの会から発信してほしい」
と壇上で言及される専門家がいた。

特別講演をされた東京慈恵医大法医学教室の高津光洋教授だった。

「今日の研究会の発表では、突然死の70パーセントがSIDSと診断されているが、
当教室の解剖結果では、SIDSは20パーセントである。
解剖をしないで診断せず、解剖、組織検査、状況判断で診断すべきだ。窒息を軽くみている」

先生は壇上からこう発言された。

赤ちゃんの急死を考える親と弁護士の会[P.160]

1997(平成9)年8月20日、弁護士にも参加を呼びかけ
「うつぶせ寝を考える会」を「赤ちゃんの急死を考える親と弁護士の会」に改めた。
会長は真理子ちゃん訴訟(122ページ参照)の森岡廣茂さんが引き受けてくださった。

保育園の事故をニアミスSIDSにされた原田美咲4歳[P.163-164]

広島の原田慶子さんは、被害に遭った娘さんの写真が入った手紙をくださった。
同封された写真に写った美咲ちゃんは、大きい目をしたかわいい4歳の女の子だった。
しかし、その目に光はなく、花にチューブが通っていた。

事故は1994(平成6)年8月、美咲ちゃんは、生後3か月だった。

「事故の起きた日に、保育園の職員全員で謝りにきて
『全責任を取るから公にしないでほしい』と言われました。
しかし、『SIDS』の名前が出てきたとたん、
『病気なので責任はない』と言いだしたのです。
生存しているから、もちろん解剖などできるわけがありません。
原因を特定できないので、保育園の言いたい放題になってしまいました」

中略

1999(平成11)年9月に、美咲ちゃんは亡くなった。
享年5歳の短い命だった。

SIDSから2ヶ月「立ち直れるわけがない」[P.183]

以前、私は、赤ちゃんを亡くした父親から
「立ち直れるわけがない」と吐き捨てるように言われたことがある。
お子さんを亡くされて、2か月近くになったころのことだ。
私は事故直後から、ご夫婦のサポートをしてきた。
母親に寄り添い、胸のうちを十分に聞いていたつもりになっていた。
落ち着きを取り戻したように思ったので、
ご夫婦に「少し、立ち直ったんじゃないですか?」と何気なく聞いた。

そのときの返事が「立ち直れるわけがない」というものだった。

赤ちゃんの急死を考える会(ISA)[P.218]

この年(2001<平成13>年)の7月、私たちの会も親と弁護士だけでなく、
多くのサポート会員が入会してくれるようになったので会の名称を変更することにした。
「赤ちゃんの急死を考える会」となり、英語名はInfant Safety Alliance
(インファント・セフティ・アライアンス)で、略称をISAにした。

園長に殺されたのにSIDSにされた藤嶋飛士己1歳2ヶ月[P.219-230_246]

2002(平成14)年3月3日、
会の九州支部長で世話人の宮田さんのホームページに、
1歳2か月の長男を無認可保育園で亡くした親がアクセスしてきた。
香川県の藤嶋さんご夫婦である。
すぐに、宮田さんからISAの世話人や私のほうに連絡が入った。

3月6日に、私から初めて藤嶋由佳さんに電話をした。
由佳さんは、私の質問に的確に答えてくれた。
その話し振りから、聡明な人だと感じた。

「飛士己は谷園長に殺されたんです。
体に無数のアザがあるにもかかわらず、警察は病死だと言って動いてくれないんです。
どうしたらいいんでしょうか? 助けてください」

由佳さんは必死に助けを求めていた。
殺されたという言葉が気になった。
最近、私たちへの相談のなかに、死亡状況や年齢などから、
明らかにSIDSではなく虐待が疑われるケースが増えていた。
しかし、多くが証拠不十分でSIDSとされ、
泣き寝入りしている被害者が目につくようになっていたのだ。

『殺されたという具体的な証拠がつかめないものか』と思い、由佳さんに尋ねた。

「どうして、殺されたと思うの?」

「事故があった日、前日に飛士己の頭にアザができていたので、
わけを尋ねようと5分早く登園したんです。
そうしたら園長が激怒し、ひどくなじったので、私もつい言い返してしまったんです。
すると、園長は飛士己を私から奪うように抱き上げ、室内に連れて行ったんです。
その後、異変を知って私が病院に駆けつけたとき、
園長の第一声が『昼ご飯は食べなかった』って言ったんです。
何でこんなときにわざわざ言ったのか、変でしょう? 
とっさに私は、口げんかのあとに飛士己に何かして、
それを隠そうとしていると思い『飛士己を殺したでしょ』と言いました。
すると園長は『この子は家にいたら家で死んでいた。
園でこんなことがあると迷惑だ』ってかなりの口調で言われたんです」

中略

「それから、1週間ぐらいして自宅に園長がやってきて
『いまから警察に行ってほんとうのことを話してきます』と供え物と手紙を置いていったんです。
手紙に『人としてとんでもない過ちを犯した。一生かけて償います』と書かれていたんです」

「いまならその園長、ほんとうのことをしゃべってくれるかもしれない。警察には言った?」

「何度も何度も調べてくれと言ったんですけれど…。
翌日に司法解剖で『SIDSの疑い』と出て、
警察の説明では『この子は死ぬ運命だった。それがSIDSという病気です。
この日家にいたら家で亡くなっていた』と園長と同じことを言うんです。
そして『SIDSは病死です。たとえ暴力の事実があったとしても、
その因果関係がないということがはっきりしましたんで』って言うんです。
主人が『SIDSの疑いとついていますが、この病名は変わるのですか?』
って聞いたところ、『これは、決定と思ってもらって結構です』と言われました。
それで自分たちで調べたり、職場の人にも協力してもらい町内の人に聞きこみをしたら、
虐待で有名な園だったとわかったんです」

中略

園長は事件のあった日のことを他の子の様子などを交えて、
まわりくどく説明し始め、なかなか核心部には触れなかった。
イライラした由佳さんが口火を切った。
ご主人の上着の胸ポケットには私のアドバイスどおり、
テープレコーダーが入っていた。

「(飛士己を)朝から放り投げたでしょう」と由佳さんが問い詰めると、園長は、
「してません。やってません」と否定した。
「具体的に何をしたんです。飛士己に」

強い口調でご主人の研治さんが聞いた。

「寝かしとったんです。そしたらガバー、ガバーっと起き上がってくるんです。
しまいには、寝んねしなさいって、こないしてみたり」

園長は少しずつほんとうのことをしゃべり始めた。
そのときのやり取りは次のようだった。

母親「たたいたんですね」
園長「はい」
父親「思いっきり殴ったかもわかりません」
母親「1回だけ殴ったんですか?」
園長「立て際に私の右足でポンと踏み…」
父親「ポンとじゃないでしょう。思いっきりですよね」
園長「申しわけありません。小さな子どもにすることではないことをしてしまいました(涙声)」
父親「いまに始まったことではないでしょう。殴ったり蹴ったりするのは」
園長「私のなかにはどういんですかね。気が短くなるというか、瞬間にそういうふうにこう…」
父親「あなたのせいで飛士己は死んだと思いますか? あなたの暴力で死んだと思いますか?」
園長「かも、わかりません」

中略

やっとの思いで録音に成功した藤島さん夫婦は、後日、警察に園長の話を伝えた。

しかし、警察は「あっそう」という冷ややかな反応だった。

じつは、事故の1週間後に警察は園長の口からこの事実を告白されていたのだった。
にもかかわらず、「病死だから」と捜査をしていなかったのである。

中略

私はふたりの了承を取ると、
すぐにSIDSと保育園問題に詳しい何人かの記者に電話を入れた。
特に、共同通信の山脇記者の対応は素早かった。
香川の記者に連絡を取り、取材に必要な関連記事を差し入れしたようだった。
その日の夕方には地元の四国新聞と共同通信の記者が一緒に藤嶋さん宅に取材に訪れ、
3月21日の日刊版で大きな記事にしてくれた。
これをきっかけに、新聞、テレビの何社かが「園児虐待死か?」という報道を始めた。

しかし、この時点では反響も全国的には及ばず、東京のほうまでは報道されなかった。
警察も「虐待死」との明言を避け、捜査を再開したようには見えなかった。

3月29日、藤嶋さん夫婦は高見澤弁護士とともに谷園長を「殺人罪」で告訴した。

そこで、ちびっこ園事件のときに取材をしてくれたTBS武石記者に連絡したところ、
数日後、香川まで取材に飛んでくれた。
彼は解剖医から「診断名を不詳にすべきだった。葬式を出すために一時的につけた」
というコメントを引き出してくれた。

また、谷園長が和太鼓のバチで園児を虐待していたことも突き止めてくれた。
そして、夫婦が苦労して録った園長の証言テープをテレビで流してくれた。
初めて流れるテープは衝撃的だった。
この報道が世論に火をつけた。
反響はすさまじく、それ以降、各報道機関が競ってこのテープを流し、
事件がマスコミで大きく取り上げられた。
メディアの取材合戦によって谷園長の長年にわたる壮絶な虐待の事実が次々に明らかになっていった。
さらに、警察や保育行政が虐待の噂があったにもかかわらず、
何も手を打たなかったことも問題視され、批判が巻き起こった。

報道を知って怒りをもってくれた人々から、警察や行政や解剖医のもとへ、
苦情の電話が殺到したようである。
「SIDSの疑い」にした解剖医は、4月4日に記者会見をせざるを得なくなった。
会見で解剖医である井尻巖教授は、

「いまから思うと不詳検索中とすべきだった。
…SIDSと書いておるのは、言葉は悪いが苦し紛れの状態で書いた。
当時は無難な診断だと考えた。
SIDSの提言のマニュアルどおりに、
すべてきっちりやれば、世の中からSIDSが消えてしまうだろう。
現時点では窒息の可能性が高い」と述べた。

中略

同時に、ISAの副会長である小山義夫さんが香川の知人や保育関係者に働きかけて
「ひときちゃんと両親を支える会」を結成した。

会の目的は「飛士己ちゃんの事件の真相を明らかにしたいという両親を支える。
二度と同じ事件を繰り返すことがないように真実を知らせていく。
虐待などから子どもたちを守るために何ができるかを、それぞれの立場でともに考え行動する」とした。
支援者の輪がどんどん広がり500人を超え、いまでは行政などに、
保育環境の改善などを申し入れするまでになった。

あまりに、社会的反響が大きく、とうとう警察も重い腰を上げざるをえなくなった。
まず、別の子に対する傷害容疑で谷園長を逮捕し、
5月3日に、飛士己ちゃんへの傷害致死容疑で再逮捕した。
そして、同21日に両親が望む「殺人容疑」に切り替えられた。

刑事裁判のなかで飛士己ちゃんへの暴行や園での30年以上にわたる虐待の事実が明らかになった。
谷園長は母親から飛士己ちゃんを奪い取ったあと、9時ごろから虐待をしていたということもわかった。

園長は、約1mの高さから飛士己ちゃんを下にたたきつけるように放り投げた。
そして、馬乗りになり、顔面を数回殴りつけた。
飛士己ちゃんは、頭を強く打ち、さらに顔面を強く殴られたことにより、ぐったりしてしまった。
それから飛士己ちゃんの体に様々な異変が起こった。
けいれんが起こり、「アーアー」と泣き続ける声がだんだん小さくなっていった。
救急車を呼べば助かったのに、谷園長は自分の虐待が発覚するのを恐れ
「このまま死んでもらおう」と思い、偽装工作を行なった。
ぐったりしている飛士己ちゃんの服を着替えさせたり、おかしを食べさせようとしたりした。

そして、泣き声がさらに弱くなり、
11時45分ごろに飛士己ちゃんの脳がゴボッゴボッと鳴ったのが最後だった。
谷園長は飛士己ちゃんを助けようとせず、その様子をずっと観察していたのだった。
それから、飛士己ちゃんが完全に死んだのを見届けると、さらなる偽装工作を行なった。
休みの保母を自宅から呼び出し、朝から勤務していたと口裏を合わせていたのだった。

こういった工作をすべて終え、15時45分に藤嶋さんに電話をしてきたのだった。

*

1月31日には、小鳩幼児園の飛士己ちゃん虐待死事件で谷園長に懲役10年が言渡された。

SIDSの最高齢は8歳[P.239-240]

小鳩幼児園の虐待死が発覚してから、安易なSIDS診断に対する批判が高まってきた。
新聞報道で「アメリカの診断基準では1歳未満、日本の国でも2歳未満と限られているにもかかわらず、
日本では『SIDS』と診断された2歳以上の子どもが
1995(平成7)年以降の6年間に全国で84人いることが明らかになり、
うち5歳以上が6人含まれ最高は8歳であった」と、
日本の診断のいいかげんさが暴露されたのだ。

ISA第6回総会[P.241-242]

8月、ISAの第6回総会に、東京女子医大の仁志田教授に講演を依頼した。
先生は講演でこんな発言をされた。

「以前はうつぶせ寝がよいと思っていました。
日本での予防キャンペーンが遅れた一因はそこにもあり、ぼくは戦犯です。
海外のSIDSの定義では解剖を義務づけられていたが、
日本では解剖率が2割と低く、データが集まらない。
しかたなく当時の先生が『年寄りの悪知恵』で定義をふたつ作ったんです。
だから、広義の定義では解剖をはずしてあるわけです。
解剖されない場合、最初の医師の診断で
突然死がいちばん考えられると思われる場合は突然死にしようと。
科学的に見れば、ほんとうにとんでもないというか…」

話のあとに、参加者からの質問が相次いだ。
仁志田教授は私たちの必死な問いかけに対しても真摯に答えてくれた。

「長時間の放置のなかで死亡した場合をSIDSとは言いません。
赤ちゃんが顔を真下にして2時間もそばに人がいなかったら、
それは当然事故の可能性が高いと思う」

「病院に入院している子どもが亡くなったら、それはSIDSと呼びません。
赤ちゃんは病気で入院しているわけですからね、
赤ちゃんは健康ではないですからSIDSと呼びません。
病院や保育所で死亡したときには、
解剖なしでSIDSの疑いと簡単に決めるべきではないと思います」

「ちびっこ園の事故を、ぼくの仲間には、
SIDSという先生も何人かいたんですけれども、
あれをSIDSと言ったならば、SIDS(の概念)はなくなってしまいます…」

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