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書籍と雑誌の要約と解説

資生堂を研究する

化粧品カブレから再販制までなんでもわかる

装丁
資生堂を研究する 資生堂を研究する
平沢正夫(ジャーナリスト)
医事薬業新報社
GTIN0036-047010-0327
1974/11/10
¥880
目次
  1. ごっつあんでした、再販制
  2. 公取委はオレのものだ
  3. 原価の一千倍で売る秘密
  4. 消費者みなごろしの経営戦略
  5. 百年史の後遺症を発掘する
  6. 二万軒の自動販売機・チェインストア
  7. 一万人のCIA・美容部員――
  8. 化粧品公害でもトップ・メーカー
  9. 艶聞につつまれた社長たち
  10. 消費者はなにをすべきか
文献
  1. 『流動』1971年5月号[P.24]
  2. 『朝日新聞』1974年1月26日[P.32]
  3. 『参議院経済安定通商産業連合会議事録』1953年7月9日[P.36]
  4. 大門一樹『原価の秘密』[P.63]
  5. 化学市場研究所『化粧品製造、販売、設計のノウハウ』[P.64-65_72-73]
  6. 『週刊朝日』1971年5月28日号[P.68]
  7. 『文芸春秋』「大きな会社の小さな社史」1965年4月号[P.70]
  8. 『週刊朝日』1971年5月28日[P.75-76]
  9. 『毎日新聞』1971年4月20日[P.78]
  10. 清水一行『松下イズム』[P.79-81]
  11. 『流動』1971年7月号[P.85]
  12. 『週刊ニッケイ』1970年2月15日号[P.93]
  13. 松田輝男『資生堂経営学』6頁[P.93-94_243-244]
  14. 草柳大蔵『企業王国論』_242-243頁[P.100-101_175]
  15. 『資生堂百年史』29_60頁[P.111-112_113]
  16. 『小説新潮』「銀座化粧館」[P.118-119_244]
  17. 『暮らしと健康』1964年6月号[P.120]
  18. 伊藤『松本昇』216_67-77頁[P.125-126_229-230]
  19. 『資生堂社史』97頁[P.128]
  20. 資生堂『チェインストア』1973年11月号[P.150-152]
  21. 資生堂『チェインストア』1970年5月号[P.165]
  22. 日本消費者協会『月刊消費者』1973年5月号[P.202-208]
  23. 『皮膚科の臨床』「化粧品皮膚障害について」[P.208_212]
  24. シンポジウム『皮膚と化粧品』「化粧品皮膚障害について」1974年4月14日[P.209]
  25. 『日本医師会雑誌64巻7号』「化粧品類による光線過敏症」1970年10月1日号[P.211-212]
  26. 『読売新聞』1974年9月2日[P.263-264]
校正
  • 資生堂が費す研究費は、[P.71]
  • 手の甲などにブツブツと水泡ができ、[P.193]
  • 皮膚病というだけで原因はわらなかった。⇒“か”だけ横向きになっている[P.203]
  • 切りすてご免にされてしまう。[P.203]
  • 担当医がいないもので……と。⇒』[P.279]
  • 化粧品は毒物やということやと。⇒』[P.279]
  • 自分が情けなくなりす。[P.277]
  • (そうい名前の大学は実在しない…筆者)[P.278]

内容

流動パラフィンもスクワランも触感は変わらない[P.67]

ある中堅化粧品メーカーの工場長にきいてみた。工場長が答えていわく――。

「コスビオールというのは、スクワランの輸入ものの商品名なんです。
スクワランは、流動パラフィンとおなじ役割を果たします。
クリームは、要するに、水と油脂の界面活性剤、あとは防腐剤、
酸化防止剤、香料などをくわえればよいのです。
流パラ(流動パラフィンのこと)は、一キロ一〇〇円ぐらいですが、
スクワランは一五〇〇円ぐらいするでしょう。
流パラよりもすべりがよくて、肌をシットリさせます。
しかし、その程度は、ほとんど気づくか気づかないかといっていいでしょう。
コスビオールは、輸入ものだといっても、国産品との品質の差なんてありません」

化粧品が高い理由は動物実験に金をかけているからだと資生堂は言う[P.68-71]

資生堂のような高級品メーカーは一〇〇円化粧品とのちがいを力説するときになんというか。

「なにせ、原料の厳選とか品質安全のために、研究所でさまざまな動物実験をしてます」
(大野良雄広報室長=当時・『週刊朝日』七一年五月二八日号)

<中略>

資生堂の横浜研究所には、ウサギ、ネズミ、モルモットが何百匹も飼育されている。
実験用の動物だ。そのうち、ネズミは毛のないネズミである。
化粧品の塗布実験にはまことに好都合な品種だ。
そして、「この毛のないネズミをつくるため、
係の研究員は静岡県三島の国立遺伝学研究所へ国内留学して、交配の理論と技術を学んできた。
ネズミの皮膚は生まれたばかりの赤ん坊のそれのように赤味を帯びている。
化学的に敏感な反応をしめすので、試作品の最低限度の実験に供されるわけである」
(『文芸春秋』一九六五年四月号「大きな会社の小さな社史」より)

このクダリは、おそらく、資生堂の自慢のタネなのであろう。
だが、毛のないネズミが化粧品の品質、とくに安全性の向上に役だつとはおもえない。

<中略>

資生堂では、工場の一角に無菌室をつくり、ここでイブニーズ化粧品を製造した。
いかにも完璧の品質管理がなされているようにみえる。
化粧品は肌に直接塗布するものである。不潔な環境でつくっていいはずがない。
とはいえ、無菌設備と抗アレルギー性とは、理クツの上ではまったくむすびつかない。
アレルギーは、細菌やウイルスでおこるのではない。
だから、無菌室でつくることが抗アレルギー化粧品の品質のキメ手にはなるまい。
生理学の知識が多少ともあれば、資生堂の詭弁はみぬかれる。
にもかかわらず、そのような詭弁を堂々とふりまわす。
これがトップメーカーの態度なのかとおもうと、あいた口がふさがらない。

中味の貧しさはともかくとして、資生堂が費す研究費は、
七二年一二月からの一年間で約一五億円。この間の売上げが一五五四億円。
ちょうどその一%にあたる。
これをもって、高級品には研究開発費がかかるとはいえないだろう。
原価と定価のケタちがいの差は、依然として納得できる説明のないままにのこされている。

資生堂に取引を拒否された下馬生協[P.88]

東京の生活共同組合の発祥地といわれる世田谷の下馬生協の専務理事・竹井二三子は、
資生堂の悪辣さをいあやとうほど経験させられた。

一九六六年のことだった。
下馬生協では、資生堂の化粧品を取扱い商品にいれることをきめた。
下馬生協は、その創立当初から、資生堂の常務であり、
宣伝部長でもあった白川忍の夫人が理事をしていた。
白川はすでに六三年に退社していたが、
そのコネをいかせばことがスムーズに運ぶだろう。
竹井や白川夫人は単純に考えて、資生堂にかけあってみた。

「トンデモナイ。安売りをする生協なんかには、絶対にいれられません」との回答が出てきた。
“再販の鬼”資生堂にとって、生協こそは憎みてもあまりある敵だ。
いくら元常務の口ききとはいえ、応じるわけにはいかない。
下馬生協の幹部たちは、塩をまいて追いかえすゾといわんばかりの扱いをうけた。

資生堂セットローション事件[P.192-199]

「あのときの資生堂の態度は高圧的でね、まったく不愉快でした。
お前らのごときブンヤになにがわかるかといわんばかりだったな」

厚生省クラブ詰めの某紙記者がフンマンをぶちまけたことがある。
一九七一年三月に、資生堂セットローションによるかぶれ事件が明るみに出た。
そのときの説明会について、知りあいの記者がイキサツを話してくれた。
「われわれが、問題のセットローションの成分をききだすと、
水とアルコールと香料と、そのあとなにやらききなれない物質の名前をあげて、
『こういうことは、高分子化学をやったものでないとわからんのですよ』というんだよ。
ひどいもんだったな。資生堂からきたのは、技術担当の役員の見矢という男だ」

<中略>

S(31)は、千葉県船橋市の前原団地に住む主婦だ。
七一年二月二七日に、近所の前橋薬局で、
資生堂セットローション(クイックドライ)を買った。
透明なグリーンのポリ容器入り、四〇〇円の品である。

翌日、そのローションをクシにつけて髪に塗り、さらに少量を手のひらにうけ、
髪のうえからおさえつけるようにして使った。
やがて、顔やクビのまわり、手の甲などにブツブツと水泡ができ、
夕方には蕁麻疹のようなかゆみとともに、表情がかわるほどはれあがった。
Sは団地の診療所で治療をうけた。
一週間かかって治ったが、医者の診断では、
「化粧品が原因とは断定できないにしても、外部からの刺激によるもの」とのことであった。

事情を話したうえで、Sはおなじ団地の主婦F(27)に、そのセットローションをわたした。
Fは、一年前に、おなじ種類のセットローションを日本使ったことがあり、なんともなかった。
三月一四、一五の両日、彼女はSからもらったローションを使用した。
説明書にあるとおり、髪にスプレーしたのである。
ところが、一五日から、両腕のソデをまくりあげていた部分が、
おなじように水ぶくれ状態になった。

なかなかなおらないので、三月一九日に、SとFの二人で、主婦連の苦情相談係にもちこんだ。
さっそく、主婦連の係員とともに、厚生省の監視課をたずねた。
監視課では、そのローションを国立衛生試験所でしらべ、原因究明することを約束した。
二人は、そのあと帰りに厚生省記者クラブに立ちより、事情をつげた。
そして、翌二〇日の朝刊各紙が大きくとりあげたのである。

資生堂はビックリ、ただちに二人の“被害者”に連絡して、
「できることはなんでもする」と、資生堂指定の医者の診断をうけるようにすすめた。
また、事故をおこしたとおもわれるセットローション(クイックドライ)の販売を中止した。

<中略>

セットローションの二人の被害者は、はじめのうち、資生堂の指示にしたがうことをためらった。
“御用医者”の診断なんか信じられないと警戒したのであろう。
しかし、東大病院で診察をうけるのだときかされて、態度が軟化したようだ。
東大の権威によわかったのかも知れない。
とにかく、二人は診察をうけることにした。

三月三〇日、東大皮膚科の笹川正二助教授が被害者を診察した。
といっても、かぶれはもう治っている。
笹川助教授は、問題のセットローション、および主成分六種類の単品を資生堂からとりよせ、
クローズド・パッチ・テスト(光をさえぎって行なう貼布試験)をこころみた。
結果は二人とも陰性であった。笹川助教授の診断は、
「セットローションが原因とは考えられない」というところに落ちついたようだ。

この診断には疑問がのこる。
化粧品かぶれは、化粧品の成分が紫外線などと化学反応をおこし、憎悪することが少なくない。
そのため、皮膚科医は、クローズド・テストとオープン・テスト(光貼布試験ともいう)を併用する。
クローズド・テストは実施して四八時間後に結果をしらべる。
そのさい、あわせてオープン・テストをおこなう。
化粧品を塗布すると同時に一定量の紫外線をあて、二四時間後に結果をみるのだ。
被検者の何割かは、オープン・テストではじめて陽性になる。
笹川助教授がオープン・テストを実施したかどうかはあきらかでない。

そういえば、国立衛生試験所での追試結果も未発表のままだ。
事件は三年以上も前のことである。
“人のウワサも七十五日”というわけで、すべてがウヤムヤにされてしまった。
そしてこれこそ資生堂がいちばん望むところである。

<中略>

後日譚をきくために、前原団地の主婦をおとずれてみた。
いろいろ参考になる話をきくことができた。
そして資生堂が消費者を奴隷に従えた王様であることをあらためて知らされた。

事件当時、主婦たちはかぶれをおこしたセットローションの現物を
厚生省の監視課にもっていき、分析を依頼した。
監視課は国立衛生試験所で分析することを約束した。
分析の結果は主婦たちにもたらされた。

「資生堂の本社の人が書類のコピーをもってきました。もう捨てちゃったけど……。
動物実験をしたら、うすいピンクの斑点が出たけれど、
決定的な要因にはなりえないというようなことが書いてあったのをおぼえています」
――二人の主婦のうちの一人の話である。

証拠書類となるべきものをなくした点はまことに惜しい。
いったいどのような実験をして、その結果をどう判断したのか。
いまとなってはわからない。しかし、どうにもフにおちないことがある。
なぜ資生堂の社員が結果を知らせにきたのだろう。
主婦たちは、厚生省に分析をたのんだのであり、資生堂にではない。
結果の報告は厚生省からなされるべきである。それを資生堂が代行した。
厚生省がめんどうくさくなって、資生堂にやらせたのか。
だとすれば、行政の怠慢である。
そしてまた、そういう姿勢自体、資生堂とのナレアイをしめしている。
あるいは、資生堂が厚生省をうまく説きふせて、報告を代行したのだろうか。
その場合、主婦たちがうけた報告がホンモノであったかどうか疑わしい。
途中でニセモノとすりかえることがいくらでも可能だからである。

それはともかく、結果がシロと出るや、資生堂は性こりもなく、
セットローションの販売を再開した。
ちょっとネーミングをかえて、クイックドライS・Nと名づけられた。

主婦たちが厚生省にいったとき、監視課では、
それまでにもこのセットローションの被害届があったことを明らかにした。
前例があったのなら、そのときになぜ分析しなかったのか。
厚生省の態度は理解できない。

ニュースが新聞で伝えられると、資生堂はおっとり刀で主婦たちの自宅にかけつけた。
千葉販社の代表や美容部員が車でのりつけ
「どうぞ病院を紹介しますから治療をうけてください」と、
指定医療機関に“連行”しようとした。
主婦たちがこれをことわったのは賢明だった。

資生堂は各地に契約した“御用医者”をもっている。
被害者はぜんぶここへ送りこまれる。
“御用医者”は、治療をしてくれるが、原因が資生堂の化粧品だとは決していわない。

<中略>

二人の主婦は東大病院で治療をうけ、Sは二週間で、Fは一ヵ月で治癒した。
なおったといっても、それはいちおうのことにすぎない。
この被害でアレルギー体質を獲得、ちょっとした刺激でも、
皮膚がかぶれ症状をおこすようになったとか……。

医者の手をはなれたとたん、資生堂本社の部長、千葉販社の常務と平社員、
ぜんぶで三人連れで、主婦たちのところにやってきた。
ご挨拶と称して、資生堂パーラーの菓子折をもってきた。
彼らは挨拶をしただけで、「すみませんでした」とは決していわなかった。
そのうえ、お車代だといって千円札が何枚かはいった封筒を手わたそうとした。
主婦たちは、「失礼しちゃうわ」とばかりにキッパリことわった。

資生堂の口紅で唇の腫れ上がったOL[P.200-201]

それは高校を卒業して勤めだしたばかりの大阪のOLの被害であった。

彼女は資生堂の口紅をつけて、くちびるが腫れあがった。
おどろいた母親が資生堂に連絡した。
そのときの資生堂の言いぐさがふるっている。
「口紅をつければ、腫れたくちびるが治りますよ」というのである。

<中略>

案の定、くちびるはますます猛烈に腫れあがった。
母親は再度、資生堂に文句をいった。
だが、てんで相手にされなかった。
泣きのナミダのOLは、それから一年以上も、病院がよいをつづけた。
くちびるがホットドッグのように腫れあがったのでは、みっともなくて会社へもいけない。
ついに彼女は会をやめてしまった。

資生堂に懐柔された雑誌『流動』[P.255-257]

『流動』という月刊雑誌がある。
その発行部数はおそらくニ~三万部だろうから、
とてもマスコミとはいえないが、レッキとした言論機関である。
私はこの雑誌の七一年五月号から八月号にかけて、資生堂のレポートを書いた。
だれに遠慮することなく、書きたいことを書かせてもらった。
こういう場合、いつも動きだすのが広告代理店の電通だ。
電通の資生堂担当者が、私のレポートに関して、
『流動』編集部に硬軟さまざまの手段で圧力をかけてきた。
編集部は一応屈しなかった。
この雑誌には、資生堂の広告がのっていなかったのが幸いした。
というよりも、広告がなかったから私のレポートをのせることができたのである。

レポートの連載がおわって半年ほどたったころ、編集者から電話があった。
「資生堂がうちの雑誌に広告を出したいといってるんです。
あなたの記事で“取引”をしたとおもわれては困るのでご相談したいのです。
どうしたものでしょうか」とつたえてきた。
ついに、やっぱり……と心のなかで思った。
『流動』は私の雑誌ではない。
しかし、連載をはじめるとき、「広告をとるための手段に使うことは絶対にしない」
という約束をかわしたのを重んじて、編集者は事前に連絡をしてくれたのだ。
少なくとも、その誠意は買わなければならない。
結論をいってしまうが、私は広告をとることに反対した。
編集者は私の意見をとりいれた。
さらに半年後再度、編集者から連絡があった。
「もう一年たつから、そろそろいいでしょうといってくるんですが……」というのだった。
正直にいって私はめんどうくさくなった。
もういちど拒否したところで相手は三度でも、四度でも、もちかけてくるにちがいない。
「どうぞいいようにしてください」と答えてしまった。
やがて資生堂の一ページ広告が『流動』のグラビアページに毎号のりはじめた。
たぶん年間数百万円の広告料なのであろう。
いまや『流動』は資生堂批判の記事をのせることはできない。
資生堂は、“敵”であるマスコミの一局面を懐柔することに成功した。
結果的には私のレポートが呼び水になって、『流動』は、資生堂の広告をとることができた。
苦々しい思いがのこるのを否定できない。

<中略>

『流動』の一件はこれだけにとどまらなかったようである。
私の連載レポートを圧殺できなかったので、電通の担当者は苦慮したらしい。
資生堂に対して顔がたたないという気持から、なんとかつぐないたいとおもった。
ある人からきかされた話によれば、
『小説新潮』(七二年一二月号)の夏堀正元の『銀座化粧館』が、
電通の売りこみだというのである。
ほんとうだろうかという気がしてならない。
その“ある人”は、「電通がずいぶん運動費を使ったらしいですよ」ともいった。

化粧品被害者・大阪在住A女からの手紙[P.275-280]

A女は、拙著『化粧品の秘密』(大門一樹と共著)を一九七〇年に読んでいた。

「顔にシミがあらわれはじめ、たいへんなやんでいたときでした。なぜだろう。
シミは老化現象だといわれているけれど、二二歳の私がそんなはずはない。
学生時代、『色が白いわね』ってだれからもいわれ、
それだけが私の長所とおもっていたのに、
日々顔が黒ずんでくるのはたえられないショックでした。
学校を卒業してお化粧をしだしてから、顔面にひどいぶつぶつができ、
春になるとススを塗ったような焼け方をし、カユミになやまされました。
それをかくしたいがために、厚めにファウンデーションを塗る。
そんなくりかえしで、もしやという疑いは私ももっていたからです。
その後でした。シミに気がついたのは……。

お医者さんへは勇気を出していってみました。
その先生は『へんな化粧品を使ったんだろう』とはおっしゃりながらも、
『お化粧をやめなさい』とはおっしゃいませんでした。
むしろ『資生堂の香料ぬきを使いなさい』と、すすめてくださったのです。
どっさり飲まなければならないお薬、お化粧下につける薬、
そして一日おきの静脈注射……これでよくなっていくんだと必死のおもいで……。
でも、一ヵ月もすると、腕は注射のあとで紫色に黒ずみ、
とつぜんおそろしくなって、薬もすててやめてしまいました。

それでもこりずに他の医者へいったのです。
その先生は、『シミができれば一生なおらない。
年をとるほどますますひどくなるし、治療してもムダだ。
だから、かくすことを考えなさい。
香料ぬきの下地を塗って、カバーマークを使えばわからないよ』とおっしゃいました。

もう、私の頭は混乱して、どうにでもなれという気持でした。
『インチキな皮膚科医がいる』。
このことを『化粧品の秘密』で読んでいながら、それでもあせって、
つまらないお医者さんにたよっていこうとした自分の姿をいまおもいだすと、
背筋がゾッとします。

それに、まだ若かった私は、
顔になにもつけないでいることが女性としてのたしなみに欠けているようにおもえ、
また、どす黒くなってしまった顔をさらす勇気がなかったのです。
もともと厚化粧ではありませんし、化粧水と乳液、ファウンデーション、
ほお紅を塗ると自然な仕上がりになり、シミもそれほどめだちませんでした。

まわりの人たちは、私の肌を『色が白くてキメがこまかい』とよくいいました。
たしかに、ファウンデーションを塗ると、自分でもそんな感じにみえました。
でも、学生時代のように“当然なこと”としてはうけとれなかったのです。
なぜなら、かゆい、皮がむける、(化粧を)全部落とすとシミはひろがり、
どす黒くなっている。
これは私自身しか知らない症状で、内心はつねに不安にさいなまされていたからです。

いったい、だれのために生活しているつもりだったのか。
自分としてのあり方を真剣に問おうともしなかった自分が情けなくなりもす。
そんなくりかえしで貴重な四年間がすぎてしまいました。
それでも、『化粧品の秘密』には折にふれ目をとおして、
座右の書にしていたのですが……。
そのころの精神状態は自分でもよく理解できません。
それほど厚化粧をしなかった私にでも、
長い年月(のうち)に化粧品はおそろしい麻薬と化してしまったのでしょうか」

<中略>

A女の手紙は、これからいよいよ正念場にさしかかる。

「そんな自分からやっと目をさましたのは、
ことし(一九七四年)六月になってからでした。
ちょっと買いものに寄った三番街(大阪・梅田にある)のお店で、
ある基礎化粧品を強引にすすめられました。
もちろんことわりました。
『私は過敏だから』と……。
すると、女店員さんは、『そうだとおもったわ。だから、これをおすすめするの。
それに、私も過敏ですぐぶつぶつが出るの』っていうんです。
ドイツで研究され、過敏な人のためにつくられた自然化粧品であり、
かぶれて名古屋医大(そういら名前の大学は実在しない…筆者)へいったとき、
この化粧品をすすめられたとのこと。
『ときどき大学の先生も見にこられるのよ』。
こんな話にまんまとのってしまって、基礎化粧品一式を買いこんでしまいました。

ところが、たいへんなことになってしまったのです。
針でつきさすような痛みが一週間後におこり、
鼻のあたまの皮がめくれ黒光りし、赤い発疹ができてしまいました。

頭をかなづちでなぐられたようなショックでした。
女店員の顔が浮かんだり消えたりしました。
そして、冷静になって『化粧品の秘密』をとりだしたのです。
それに勇気をえてお店へ電話しました。
お店からメーカーに連絡し、ともかく製品をひきとってもらおうことができたのです。
先方は床に顔をすりつけんばかりのあやまりようでした。

『名古屋医大にはいわないでほしい。女店員が勝手にいったのだ。治療代はいくらでも出す。
ただ、うちは日本のメーカーさんのように、担当医がいないもので……」と。

ああ、『化粧品の秘密』に書かれていたことは、やっぱりほんとうだった。

いつのまにか、私のひざの上に大きな菓子包みがおかれていました。
そのとき、お店の係長さんがソッと耳うちしてくれたのです。

『あんたやからいうけど、こんなんしょっちゅうやで。
資生堂とかカネボウは専門の医者がいて、そこへ送りこむねん。
あんたはそんなところへいったらあかん。
ちゃんとした大きな病院へいきや。
それにお化粧なんかやめてしまい。
あんたやったら薄化粧やから、すぐやめられるよ。
こんな仕事していていつもおもうのは、化粧品は毒物やということや」と。

阪大病院へいきました。
予診のとき、先生が説明されたことは、とっくの昔に知っていたことです。
本を読んでいましたから……。
シミの原因は判明していないが、体質や生理的なものが基礎となり、
それに化粧品の異物(というよりも成分そのもの)が誘因となり、
日光の刺激によって悪化するということ……。
その一つの解決方法として、パッチテストがおこなわれる。
三日間ともかよい、最低限にしぼってテストを行ないました。

明色レモンアストリンゼント、明色白粉、
資生堂乳液(香料のはいっていないもの)、資生堂ファウンデーション、
資生堂ほお紅(長ったらしい名称にお医者さんも舌をかみそうになり、
カルテには私が手つだって書きこみました)。
なんとおどろいたことに、四八時間後の検査(ふつうのパッチテスト)では乳液が、
また七二時間後の紫外線照射(光貼付試験)では、
乳液、ファウンデーションが陽性、ほお紅が疑陽性に出たのです。
お医者さんにすすめられた、四年前にすすめられたあの乳液が……。
情けないことに、これでやっとすべての化粧品から手をひくことができたのです。

一週間ほど顔がゆがむほどつっぱり、なんどか化粧品に手をのばしかけました。
『ああ、危ない!』。そう思って全部すてました。いまではそういうこともなくなりました。
それに、最大の発見は顔から油が出てくることです。
皮がむけたり、カサカサしたりするのになやまされていた私は、
てっきり自分の肌を乾性だとおもって、油性へ油性へとかたむいていったのでした。

いま、私の顔にふれるのは、
この空気(よごれすぎてはいますが)とお水と三五円の石けんだけです。
このごろ、ふしぎなことに、きれいになったわねといわれるんです。
ふきだしそうになるんですけど……。
でも、それはお化粧をやめることによって、
自分自身を解放することでできた輝きなのかも知れませんね。

五年間も蓄積されたシミは、容易にはうすくならないかも知れない。
でも、それをかくそうなんていう気持は、いまは全然ありません。
阪大での治療は、お化粧をやめることだけです。

女性は同性を助けようとしないのだろうか。
私は異性から救っていただくことができました。
そして、これからは、私が同性を救っていかなければとおもうのですが、
女性はどうも疑いぶかくてダメですね。
このあいだも、『顔がかゆくて皮がむける』って相談されたので、
『じゃ、お化粧をやめなさい』といったら、にらまれちゃいました。
社会には落とし穴がいっぱいあるんですね。
もっともっと自分は賢くならなくちゃいけないとおもいます」

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